お蔵入り.


三原麗珠の近況

1998 年

4月から大阪府守口市大日東町に住む(1999年3月まで).大阪大学社会経済研究所にて5月から99年2月まで研修. 主な仕事はこれまでに投稿した論文たちの修正,そして公理的集合論の N. Brunner とはじめた共著. 数学基礎論の隈部正博とも単純ゲームの複雑さにかんする共著をはじめる(これはそれ以後なかなか進展していない).

研究所には西條辰義の Economic Design Workshop に参加したり,ときどきセミナーを聞きにいったりした. 図書館の石田さんには論文のコピーや書籍の取り寄せでだいぶお世話になった.セミナーのあとには医学部の同窓会館(銀杏会館)にあるミネルバ(あるホテルの出張レストラン) でフランス料理など. 補助金が出るため安上がりでコース料理が食べられることもあって,よく参加.きれいなお姉さんが目の前でデザートをサーブしてくれるのもよかった. いっしょになることが多かったのはミクロ関係の教授陣の西條,八田,宮崎.

研究所前にはよくダイハツのオプティが3台とまっていた. 研究所を訪問した東大のゲーム理論家が, 「ここの大学ではこの車配給されるんですか?」と尋ねた.所長の八田さん,事務のかわいい香織さん,そして僕の,それぞれの個人所有物だった. 僕のは95年製のシルバーメタリックの Opti pico.まあるいかわいいボディが好きだった.

香織さんはもと秘書.ミニスカートが好きで,事務に似合わないガキっぽい格好をよくしていた. 僕も彼女のミニスカートが好きだったが,その中身にも関心があった.見せてもらえなかったけど.情報処理(分かりやすくいえば,研究室でのお仕事)を短大で教えていた大阪大のせんせいに 引き抜かれて研究室の秘書になったらしい.僕も短大で教えて恋人兼秘書でもゲットしたいものだ. 残念ながら香織さんにはキャンパスで他の女の子といちゃついているのを目撃されたので (というのが理由ではないだろうが),恋人にも秘書にもなってもらえなかった.

ゴールデンウイーク,東京で働く OL (2001年4月現在,98年当時は香川の女子学生)が大阪に遊びに来た. うれしかった.彼女ののちの彼氏はのちにそこに進学したのだが,そのために大阪大学を見に来たわけではなかろう.尊敬する師である僕に会いに来るのが主目的だったはずだ.ということでうれしかった.だけど 大学まで普通25分くらいでいける道を数時間かけていくことになった.とちゅう,トイレに行きたくなったわけではかったけど,たいへんだった.

思えば以前僕が香川大学経済学部本館2階で「ちょっとトイレいくから待ってて」 といっておしっこしてたら,その当時女子学生は「せんせー」とか言いながらひとのやってる姿を覗きに来た女だ.「ばか,はずかしいじゃん」と僕が言うと,天然ぼけとも呼ばれていた当時女子学生は「イェーイ」と言いながら,洗面所で手を洗いつつ鏡を覗いているようであった. (写真がないと分かりにくいだろうが,本館2階のトイレはいちおう男女の区切りのついたてはあるものの,洗面所が男女共用でそこから男性用の小便器がずらりと見えるという代物だ.) べつに学生が教授陣を尊敬すべきだなどとは普段思っていない僕だが,さすがにその時は「おしっこのときくらいはひとりにして欲しい.そのくらいの尊重はしてもらいたい」ものだと思った.大学教員の権威もそのくらいはあってもいいのではなかろうか.こういう行為をされた場合,された側が同様のことを要求してもセクハラにはならないと明記して欲しいところだ.しかし女子トイレは個室になっているので,いっしょに個室に入らなければ見ることはできない. (1999年に講義棟で例外はあったが,それは後に仕事をクビになった学外者の開けた穴によるものであり犯罪だ.) よって「同様」という状況が成り立ちにくく,けっきょく「同様の要求」はできない.これは不平等というものだろう.

さて,僕の共同研究者が夏ころ研究所のトイレで用を足していたら,たまたま居合わせた所員が電気をぱしっと消して出ていった.環境経済学者というわけでもなかったはずだが.

大阪大学社会経済研究所での研究風景は以上のようなものであった.つぎに私的なことも若干つけくわえよう.

横長の顔の女の子と互いに行き来して一週間に数回会っていた. 送り迎えする途中,寄り道という感じでよくドライブした. 街中ではなく山とか港にいくのが好きだった.ときどき林道に迷いこんだりしていた.彼女のルックスは個性的で,美醜の物差しでは計れない.僕の恋人としては珍しい. 口論して追い込まれると彼女は猫のように「ギャー」と鳴いた.僕が他の女の子のことを話すと彼女はふくれることが多かった. はじめのころは認めると言っていた浮気も,だんだんだめだというようになった. 僕が他の女の子のことをみんなあきらめたころから,行き違いが多くなった.人の助けを借りずにやりたいことがあって,彼女の両親の厚意を無視したことも行き違いの原因だった.

朝鮮学校で教えた経験のある教育者とも知りあいになった.旧帝大の研究所を 辞めて私塾を開校し,主に朝鮮人・韓国人に教えていた尊敬すべき自由人. 朝鮮学校の閉鎖的な民族教育を嫌っていた.

食事は冷凍のピラフなどを暖めるだけというのが多かった. この年買った炊飯器でご飯を炊いてキムチとインスタントのみそ汁を 添えて食べることもよくあった.ほかほか弁当もときどき食べた.食料品は主に古川橋のトポスで買った. つきあっていた彼女と外食したり彼女の家族といっしょに食事することも多かった. しゃぶしゃぶ,ステーキ,焼肉,韓国料理,鍋料理など.深夜にときどきひとりでラーメン屋に行っていた. インスタントラーメンは買わなかった.

1999年

大阪の彼女とは一月末にだめになった.まだ戻れるかもしれないと互いに 思っていたためか,それでも何度か会った.春に遊びに来るという彼女の約束は果たされずに終わった.絶望.この年は生きた心地がしなかった.

3月下旬に高松市に戻り,三条のアパートを引き払って屋島西町に住み始める. 屋島から大学へは高松港を経由して通った. 海沿いをOptiでドライブしながら屋島を眺めるのはリゾート気分だった.香川県の詫間で生まれた(この事実を知ったのは2000年夏)という祖母から受け継いだ記憶だろうか,あるいは横浜生れの祖父から受け継いだ記憶だろうか,瀬戸内の海が僕を癒してくれた.

この年は教務委員と教員組合の委員をした.

教務委員は,改革という名の教育プログラム微調整とか, 編入学生の単位認定とか, 成績不振者への面接とか 留学生への奨学金面接試験とか, 学内施設の不正利用者の処分とか,事務的ルーティンがほとんど.現状を変えるようなものではなかった.教養科目の名前だけの中途半端な改革もまたもやあった.消耗した.まじめに相手をさせられた経済学部の同僚たちはおそらくもっと消耗した.今回の最大の問題は,改革のモデルが見えないことだった.もちろん通常の問題はモデルが悪い(うまくいっていない日本の大学をまねる)こと.

組合活動としては,まずセクハラ規制の大学適合化を目指した.結果はだめだった. 表現の自由への配慮をまったく欠いた規制ができてしまった.消耗した.研究上の氏名の尊重を求める活動もした.それについては,限定された成果があった. 戸籍名や生年月日や写真をふくむ個人情報をWeb 上の研究者総覧に掲載することがいったん決まっていたのを巻き返しできたことだ.それ以外はたいした進展なし.消耗した.

2000年前半

学内 Web 規制への動きが本格化.労力と時間とを投入し,経済学部の協力を得て改善のための活動をした.しかし「われわれ自身への規制はわれわれ自身で決められるはずだ」という,コミュニタリアンの動きが法学部から. 個人の自由を集団へ売り渡しすることを要求するその結果は,われわれ集団の存在の前提---表現の自由---さえ否定する代物.「われわれ自身で決められる」からといって,われわれは この集団が(自由な表現を守らなければならない)大学であるという前提さえ否定してもいいものか.

4月は新入生だけでなく新任の教員も入ってくる.今年も他の同僚よりは若い女の子がひとり入ってきた.じつは研究室割当の仕事をしていた僕は,一時もう少しで彼女の研究室が僕の隣になりそうで,少し期待したりもしていたのだ. そのため同僚,特に女性の同僚,は「彼女を狙ってるんでしょう」と,あいまいな表現で僕を冷やかした.(本館2階の前述の一部共用トイレを僕が使っていると突然入ってきて,「どうぞ盗んでください」という感じで洗面所に財布と鍵を置いたまま個室に向かった同僚のこと.1階の端にある,より清潔な女子トイレまで毎回いくのは面倒なのだろう.盗まれないようにその鍵を使って先にオフィスに入って待っててあげようかとも考えたが,親切すぎるのも迷惑ということもあるので,そのままにしておいた.) でもセクハラ規制の影響か,「麗珠さん,彼女のパンティーを最初に脱がすのはだれだと思いますか」 (答はこちら) などと直接的表現をする同僚はいなかった.そういう意味なのかと上記発言の女性同僚に聞きたいとも思ったが,恥ずかしかったし,僕が勘違いしてて怒らせると怖いので聞かなかった.しかし脱がしてそれでおしまいだと,それこそ嫌がらせではないだろうか.そもそも他人が脱がすと仮定しているところも問題だ.セクハラと受け取られてしまうエラーをゼロにしなければと男性が怯えている時代,女性は自分から脱ぐしか選択肢がないのではないか.以上,関係者の承諾を得た部分だけ掲載.

2月に知りあった女性がいた.4ヶ月で約400通のメールを交換した.一緒になるのではないかと彼女も僕も思うようになるまで,何ヶ月もかからなかった.たとえ他の女の子に手を出してもふたりのあいだは壊れないのではなどと考えて約束を先延ばしにしているうちに,壊れてしまった.彼女が簡単にあきらめたように見えたのが残念だった.

大学帰りの寄り道も多かった.空港行ったり,庵治半島を一周したり,五色台をドライブしたり,深夜に国分寺のジョイフルに寄ったり,塩之江通って南下して県境辺りで北に向かいダムの横を通り抜けたり,というパタンが多かった.山道に迷いこむこともしばしばだった.

ここで日記を挿入.2000年夏以降の話はそのあとに続く


日記 (香川大学経済学部 2000 年度 専門教育科目 経済学概論A (メカニズムと権利) の授業記録から抜粋)

5/11/00
外はこんなに奇麗な雨の夕暮れどき(不可能な光景?)だというのに, 質問に来た学生だけでなく,不思議なことに 「ドライブに連れてってください」 と僕を誘いに来た学生もいなかった.(幸い「津田のバイト先まで乗せてって」というのもいなかった.) そんなわけで,僕はひとり五色台に車を走らせた. こんな日は瀬戸内海沿いのあの山の中は霧でいっぱいになる.そして今日もそうだった.濃い霧のなか,採算が採れなくなって去年無料化してもなおほとんど車のない旧有料道路を車でとばすと,シーツでつぎつぎと包み込んでくるように幻想的な世界が僕の目の前に展開した.開けた車窓からはひんやりした 霧が鼻から入り込んで,朦朧とした頭脳に粒子のようなここちよい刺激を与えてくれた.

5/25/00
律義な僕は前日約束したとおり Kさんを誘って五色台へ. あの凍りついた銀色の海の夕刻も世界全体が灰色につつまれていて幻想的でよかったが, 抹茶アイスもおいしかった.ね.

5/29/00
オフィスアワーの後,オフィスに来た K さん. 「学生が来ても突然アラーキーの写真集とか見せたらだめですよ. リピーターになってくれなくなりますよ.」いろいろなモノを脈絡無く披露した夕刻だった.さて,K さん自身はリピーターになるだろうか.

6/8/00
他の誘いを断ったという K さんと,にんにく屋でドラゴンファイアーなど.火を吹くエビチリ.
空港は雨.深い霧の中を通って,新しい風景に入った.

6/12/00
ある終結のメール.細い橋を渡っていたら,とつぜん橋自体が落ちた感じ.悪夢.
同僚とゆめタウンでお買い物.きょうは musk (じゃこう)のお香をたいていい夢を見よう.

6/15/00
もと女子高生と五色台に夕日. 駐車場から500メートル離れた大崎の鼻展望台?まで歩いたのははじめて. 予想通り眺めは悪かった.備讃瀬戸方面が少し見える自然のなかの「密室」.夕食はレトロなお店でチンチンとか歌うナンセンスな曲を聴きながら, 火を吹くオロチョンラーメン他.

6/22/00
22時近くまで研究室で作業.まだぜいたくラーメン福一は開いているだろうけど, 郷屋敷や山かつはたぶん閉まっているだろう. そんなわけで(?)ということもないが,ギョウザやまあぼう豆腐を食べることになった.

7/7/00A Candle
三条の馴染みの美容室で99年の3月以来はじめて髪を切ってエコディマーレという海の見えるイタリア料理店でフルコース. もとシーバルと呼ばれていた瀬戸大橋の見える丘にも行った.結婚式場になっていた.カップルが多いと思ったら,七夕なんだね.

7/13/00
このログに初登場の女子学生が2人,どうして髪を切ったのか聞いてきた. 特に理由はないと答えた.学期中に切るつもりだったことがひとつの理由か. 切ったほうがよくなったと2人そろって言っていた.「よくなったから,いっしょに小豆島行って写真集でもつくりましょう」 とは言われなかった.後日,「切る前の方がよかった」 と言った文学系の男子学生も現れた.
小豆島では今月スピード違反で捕まった. 57キロしか出していなかったのに. 記念にオリーブの島郵便局で罰金を払い込んでスタンプをゲットした.


2000年後半

この夏は体調がよかったこともあって,久しぶりに遠出した.

7月は小豆島へ.オリーブ神殿などちゃちな観光地も多い島だけど,寒霞渓は雄大でよかった.紅葉の秋に行くのがベストではないか.生まれてはじめて警察に捕まった.それまで捕まらなかったのは運がよかったからではない.今回ははじめての道なので,取り締まりをしているという気配を感じそこねたようだ.どうでもいいが,香川にはちゃちな観光地が多くないか.宇多津のゴールドタワーとか.宿泊は屋島・庵治・志度の山並みがかすんで見える宿で,オリーブ焼きを食べた.

8月はオプティを運転して宮崎や滋賀に行った.宮崎に行くときは,高知を通って行った.桂浜,黒潮ライン,56号線を通ってアグリ窪川という道の駅で休憩.客の多くが豚饅を食べていたので,僕もそれを注文.窪川の生姜アイスは都会的な味がしておいしかった.あとで気づいたが,窪川は生姜の産地らしい.381号線に入り四万十川沿いを走る.途中沈下橋を渡って川に降りてメダカを取ったり.宿泊は西土佐村のホテル星羅四万十 (こちらにもサイトあり).公共の宿としては宿泊料はやや高めだけど,(西土佐村の一流企業なのだろう) 従業員の女の子も神戸ハーバーランドニューオータニよりかわいかったし,星も奇麗だったし,懐石料理に珍しい一品もあったので許す.鮎の塩焼き,四万十川の海苔を使った冷やしラーメンや天麩羅など.一夜明けて四万十沿いに走り,四万十の屋形船乗って,フェリーで宿毛から大分の佐伯に.宮崎県に入ると,警官に見えてしまう標識が多くて紛らわしかった.

宮崎では日南海岸や西都原古墳群,そして綾へ行った.一番大きい古墳は宮内庁が管理しているので中を見られない.近くに新田原(にゅうたばる)基地もあることだし,中は最新鋭のスパイ施設にでもなっているのだろう.綾の酒泉の杜で買った日向夏キャンディーは上品な味がした.しかし宮崎といえばシーガイアだろう.南北約10キロメートルで総面積約700ヘクタール (700万平方メートル) の広大な敷地を持つリゾート.古事記に出てくる泉もこの敷地内かすぐそばにある.香川では,リゾートホテルオリビアン小豆島とたいして変わらないと思っている人も少なくないみたいだが,オリビアン小豆島の方は総面積16万平方メートル.広さ40倍以上で,贅沢さもぜんぜんちがう.今回は泊まらなかったけど,ホテルオーシャン45の展望ロビーに登って海と山そして街を眺めた.そして近くのベトナム料理店で夕食.

帰りは佐賀関から三崎へのフェリーを使う.九州と四国が手を伸ばしあっているところ.70分の船旅だけど,台風のせいか,これが結構揺れた.海に沈む夕日はよかった.20時10分に三崎着.佐多岬では速度制限は無視していいものと理解.しかしもう遅い.道後温泉に寄るにもこの時間じゃ料理も出ないだろう.24時頃,高松西インターへ.次の日は高松で花火大会.バーベキュー,ラムネ,イカ焼きなどを立ち食い.

その次の日には滋賀をめざして出発.大鳴門橋,明石海峡大橋を渡っていく.滋賀では滋賀大学,彦根城,伊吹山,そして琵琶湖へ.伊吹山ではおでんと甘酒.そういえば2年前のあの日,比叡山でも甘酒を飲んだものだ.比叡山のお寺の階段で父は女子高生のスカートの中が見えたと喜んでいたが,彦根城の階段では何も見えなかった.琵琶湖では夕日をバックにした人物のシルエットが奇麗だった.滋賀からの帰り,時間に余裕があったので淡路花博に行く.花はあんまりなくて木がたくさん植えられていてだだっぴろかった.その香りを嗅ぎに行こうよといって,以前同僚を誘っ (て断られ) たことがあるチョコレートコスモスは枯れていた.高松に着いて次の日,県庁21回の展望台で以前つきあいたいと思ったこともあるもと図書館勤めの女性に偶然会った.二人きりで書庫にも行ったことがあるが,いけないことを何もしなかった僕は香川大学をクビにならずに済んでいる.

投票制度分析」の集中講義(僕も聴講しました)に呼んでいた小野理恵さんがやって来たので,遅れて来た連れや松岡久美さん他の同僚も誘って,僕もこの際ということで香川観光.瀬戸大橋,カサデルマールでお茶,瀬戸大橋タワー,宇多津のガラス館とゴールドタワー,五色台,仲見世で伊勢エビ,山田屋でうどん,わら家でうどん,四国村,屋島山上,庵治半島.今回も琴平というところには行きそびれた.小野さんたちはその後小豆島へ.

8月の終わり,昔の女に似た雰囲気を持つ新しい女の子にキス.久美さんが紹介してくれた大阪の子.ひとりで行くのは嫌だからいっしょにレオマワールドにでも連れて行こうと思って,以前同僚に女子高生の娘を紹介しろと頼んだときはダメだったが,今回は久美さんに頼んでうまくいった.僕はもと彼に似た雰囲気を持っていると大阪の子に言われた.

こうしてこの夏はカリフォルニアへの渡航関係の準備や手続きと遊び,そして夏前にクラッシュしたハードディスクの修復で潰れた.ビザは出発の一週間前に届いた.

9月20日,ロサンゼルス着.パサデナの Caltech (カリフォルニア工科大学; California Institute of Technology) でのハードな日々が始まる.(2000年12月に2週間ちょっと帰国したあと2002年3月までCaltech に滞在.) 9月25日の授業開始までにアパートとか健康保険とか自動車保険とか自動車登録を何とかしたいし,コンピュータの環境も整えたいし,毛布くらい買いたい.今回獲得した留学資金が使える2ヶ月 (プラス14日?以内に帰国しなければならない) で学期の主要部分をカバーするためには,このようにぎりぎりに出発せざるを得なかった.さいわいクルマは同僚の原さんから壊れかけた Lincoln Continental を数日目に500ドルで譲ってもらうことになっていたので,探す手間が省けて助かった.ところが飛行機に乗ったせいだけでもないだろうが,着いてしばらくすると耳痛,腹痛,腰痛などがあらわれる.夏前の応急処置の効果はこれで終わりか.トイレに一日何度もいかなければならなかったり,脚が痛くて歩くのがやっとというのが2ヶ月くらい続くことになる.そんなわけでアパート探しは無理かと思っていたとこに,授業開始と前後して Caltech の faculty housing が空いたという情報が入った.大学に隣接していたこともあって,即入居を決めてしまった.アパート入居は9月27日.

Caltech は工科大学.経済学や社会科学をふくむどんな専攻であれ,学部卒業には数学と物理学を主とする自然科学が大幅に要求されるのはいうまでもない.もちろん人文科学からも社会科学からも一定単位以上(一週間3時間授業のある科目なら12科目分)とらなければならない.単に数だけでなく深さと広さも要求される.(もっとも人文社会にかんする要件はアメリカの大学としてはふつうだと思う.) 人文は歴史・文学・哲学・芸術史他の4分野をすべてふくめなければならないし,人文と社会のいずれについても,入門でない専門科目をふくめなければならない.すべての学生に高度な教養が要求されているわけで,1年生がとれることを前提にして学生を甘やかしている香川大学の教養科目 (全学共通科目) とはその哲学からしてちがう.これらの人文社会科目もけっこう充実している.たとえば実際に開講されることはあまりないかもしれないが,わいせつ文学などをあつかう科目もまともな大学らしくちゃんとリストされている:

Hum 141 a. Offensive Literature. 9 units (3-0-6). Offered by announcement. A survey of literature deemed at various historical periods to have been seditious, blasphemous, obscene, or libelous.

Caltech の大学院生には賢い人間が多い.Caltech の学部生には人間離れした賢い生き物もいるようだ.普通の学生にしても,香川大学の学生と同じ人類であるとは考えにくい.僕が聴講したCaltech の授業関係の話は英語で書くことにする.学生にもどったつもりで主に政治理論を勉強した.

12月の帰国2週間前くらいまでは耳痛,腹痛,腰痛が続いていた.腹痛は,たぶん耳痛や腰痛の治療のための抗生物質が IBS (過敏性腸症候群) のお腹に作用して長期化したのだろう.(IBS は胃腸薬がほとんど効かない病気なのでやっかいだ.いちばん有効な対処法は家にいるか (←直るわけではない) 食事を抜くことだが,朝と夜に授業がある日などは朝から晩まで食事を抜くことになるのであまり身体に良くない.) お腹を壊していたし,駐車場からレストランまで歩くのも辛かったので,外食を控えた食事パタンが確立してしまった.何回か断っているうちに,食事の誘いも来なくなった.

パサデナに来たはじめのころは主にできあいの冷凍食品 (TV dinner というのだろうか) とべーゲルを食べていた.しかしそのまずさに我慢できなくなって,シリアルとインスタントラーメンとできあいのサラダとパスタと各種果物に切り替えた.シリアルはずっと避けていたが,ラクトースなしの牛乳ならお腹を壊さないことが分かって以来とりいれるようになった.ラーメンは一袋10セントくらいで買えることもしばしばだった.サラダはヨーロッパ風,パシフィック風,東アジア風など,とにかくいろいろなドレッシングを試してみることがせめてもの慰めだった.くだものは安くてさすがカリフォルニアって感じ.ああ〜もう食事の話はやめよう.酷すぎるんで.だけどモンゴリアンのバーベキューのテイクアウトは安くてそれなりにおいしかった.子ヒツジ肉 (lamb) を多めに入れるのが好み.

飲み物はできあがったウーロン茶や緑茶は日本と比べて高いのでほとんど買わなかった一方,高松ではまず手に入らなかった濃縮果汁還元でないオレンジジュースやグレープフルーツをいつも買った.これらはフロリダ産.水 (drinking water とあるのはあまりおいしくなかったので spring water にした) もこちらでは安いので値段は気にならないが,運ぶのが重い.こちらはラズベリーとかブルーベリーとかクランベリーとか,日本人には視覚的にきつそうなジュースも多いが,飲んでみると見た目ほどきつくはない.野菜ジュースで僕の好みは R.W. Kudsen の Very Veggie Spicy! というやつ.よく行くVons (並のグローサリーストア) には売ってなくて Whole Foods (少しハイクラスのグローサリーストア) まで買いに行った.ピリッとした辛さの奥にコクがあって日本ではまず手に入らないおいしさだ.手に入らないのは僕の味覚が日本人離れしているからかもしれない.(火を吹くオロチョンラーメン [ユッケジャンのスープにラーメンを入れた感じ] を食べるときはいちばん辛いのを3倍の辛さにして注文することが多い.) 同僚で大阪育ちのあの原さん夫妻でさえ辛すぎて飲めなかったというから,日本でのマーケットは絶望的ということかも.熱いお茶は日本にいたとき同様,玄米茶やほうじ茶や各種ハーブティー.日本茶は Vons ではあまりいいものがないので Whole Foods で買った.ワインはまじめに探さなかったためか,日本で飲めるカリフォルニアワインを越えるものをみつけられなかった.あと,ヨーロッパもののチーズもいろいろ食べた.デザートは月並みに Häagen-Dazs のアイスクリーム.ラムレーズンあたりが好みかな.下剤のつもりで食べるところが麗珠流.

日本に戻ったときは,関西国際空港からバスで三宮へ向かい神戸に寄った.堺あたりの夕日をバックにした工業地帯が美しかった.じつは工業都市で幼少時代を過ごしたのだ.南京街,ハーバーランド,モザイク,観覧車,パチンコ屋みたいな豆電球の飾り付けをする神戸ルミナリエというお祭り,布引ハーブ園なんかを観光.神戸・高松間ははジャンボフェリーで2000円分のクルージング.

年末にパサデナの Huntington Botanical Gardensと,Norton Simon Museum に行った.ロサンゼルスに来て以来,はじめての観光.ハンティントンには日本庭園もあった.

2001年

原さんから買った Lincoln Continental は大きすぎて運転しにくかった.買い替えるべきかどうか迷っていたら,2月に潰れてしまったので,今度は 92 年製の Nissan Sentra を 1400ドルで買った.ふつうの中古車ディーラーで買うとずっと高くなる.今回は Linclon を修理に出していたガレージのお兄さんに頼んで紹介してもらったのでこの値段で手に入った.

9月11日,日本にいる妹から電話.ニューヨークの World Trade Center ビルに旅客機が2機突っ込んだらしい.日本赤軍から学んだといわれる神風攻撃,例のテロ事件だ.そんなときに電話するなよと思ったが,9月12日にホノルル向けて出発する予定らしい.金持ちの顧客ひとりを追って一年数ヶ月はハワイにいる,もと不動産会社勤めの妹だ.飛行機が飛ぶかどうか分からないかと聞いてきた.そんなの分かんないよ.外務省が指示したのだろうか,香川大学の事務からは安否の確認メール.怪しい外国人ということで FBI の捜査でも受けて拘束されていないかを確認する,「救援活動」というやつだろう.僕はビザは切れてたし,イスラム教徒と同居してたこともあるし,状況証拠では KGB の元予備軍の知り合いもいたことがあったが,べつにテロリスト活動なんてやってないのでだいじょうぶなはずだ.救援活動なら,さっさと軍隊を派遣して戦闘に加われよ,間抜け!

この週はいつのまにか80ドルで買っていたテレビに釘づけだった.ノストラダムスが1999年に空から大王が降ってくると予言したのは,台湾の地震のことだとそれまでは思っていたが,彼はこちらの映像を見たのかもしれない.祈りの日の礼拝は,最初から最後まで注意深く見た.予想通り The Battle Hymn of Republic (だったと思う; おたまじゃくしはかえるの子,あるいはごんべさんの赤ちゃんが風邪引いた,あるいはヨドバシカメラの曲) で礼拝は締めくくられた.靖国神社のことを思いだし,日本は悲しい国だと思った.おっとこんなことを書いていると国粋主義者のシンクタンクに転職できてしまうかもしれない.でも僕は一神教のほうを信じるからダメか.多神教はなまぬるいのだ.一神教を信じる者のほうが闘うときは徹底的に闘うと思う.

日本の新聞報道はそこまでひどくはなかったようだが,ネットではこれはアメリカにも責任があるなんて意見も目についてむかついた.市場でひとり勝ちしているとか,イスラエル寄りだとか.「市場でひとり勝ち」というのは米国企業のことを非難しているのか,それともそういう市場メカニズムの維持に貢献したという罪 (?) で米国政府のことを非難してるのかはっきりしないが,市場のルール自体が嫌いな社会主義者が例の独特な論理を展開しているのだろう.それはいつものことだから言わせておくとして,なんで同盟国のイスラエル寄りになるのが悪いのだ.イスラエル寄りにならないというのは,日本と中共が戦争をはじめたときアメリカがなんにもしないで日本を見捨てることに等しい.それではなんのための同盟か分からないじゃないか.この想定があまり現実的でないと思うなら,北韓が日本に核攻撃をしてきたという,もっと現実的な想定をすればいい.そのときアメリカが日本寄りでなかったらどうなる.アメリカが何もしないということが分かっていたら,だれが北韓の攻撃を抑止するんだ! 強いて言えば,クリントンの弱腰外交が今回のテロ攻撃を招いたという点ではアメリカに責任がないとはいえないが,それは戦術の失敗であって道義的責任ではない.これは善悪の戦いとして見るのがいちばん正しい.自分はそう見ないという人でも,アメリカ人は善悪の戦いという単純な枠組みで見ているのだととりあえず考えればいい.そうすることで少なくともアメリカの行動の多くが理解可能になるはずだ.アメリカの国益追及というよりは人類全体の善のためにアメリカが戦っていると考えたほうが分かりやすいことが多いのはそのためだ.どう戦うかは戦術の問題であり,攻撃的になるのがいいか防衛的になるのがいいか断定できないが,根底にあるのは善悪の戦いである.

この年はロサンゼルスエリアから一歩も外に出なかった.ロサンゼルス観光は少しやった.

経済学部の原さんが留学してた UCLAに行ったし,松岡さんが留学してた USC (University of Southern California) にも行った.USC では日本人とのハーフの女の子に声を掛けられたが,あとが続かなかった.松岡さんは Ross: Dress for less という店で買い物するらしく,この年10ドルで三枚,5ドルで一枚ミニスカートを買ったらしい.15ドル払えばまあまあの服が買えるということ.

他にはGriffith 天文台とかサンタモニカとか行った.サンタモニカは崖になってる以外は,ややさびれた日本の観光地の浜を思わせるものがあった.夕日を見に Sunset Blvd を抜けてマリブ方面へ向かったときは,いいスポットを見つける前に日が沈んでしまった.ダウンタウンでは,Rose Garden や Museum of Contempory Artとか.現代美術館はシカゴの方がよかったが,特別展のダックスフントが立った写真はおもしろかった.別館では性器の結合を手でまねしたビデオなどあって,僕も歩きながら無意識にその手をまねしていた.リトルトーキョーでは車道のない裏通りに食べ物屋ほか,べつに興味ないがビデオ屋やコスプレ写真の店などがあった.すぐ南のみつわとあさひや書店でちょっと買い物.パサデナに新しくできた屋外モールの Paseo Coloradoも一度行った.

はじめてダウンタウン行ったとき外していたチャイナタウンには,ある土曜日の朝,ある東洋人の女の子に誘われて行った.Empress Pavillion という高級中華で飲茶.英語ができてもあまり役に立たない.2人7皿で 22.95ドル.チップ3ドル.その後チャイナタウンを散歩して,サイゴンプラザという,以前のアメ横か下北沢みたいに小さな店の集まる市場でTシャツ5枚10ドルで買う.税金はどうなってるか分からない.領収書ももらわなかった.多分香港製の日本発アダルトDVD10ドルなんてのを置いてる店もあった.そういうのが欲しい人はあわてて小東京で買わないほうがいいということか.DVDは中華街のべつの店でも40ドルくらいしたので,あくまでもサイゴンプラザで買わなければ安くならないのかもしれない.しかしその店にはアダルト DVD が本棚2段分くらいしかなかったと思うから,品ぞろえは良くないのかもしれない.サイゴンプラザはとても混んでいた.クリスマスイブにはグローサリーストアに買い出しに行くついでにパサデナ近くのクリスマス・イルミネーションの奇麗なところ2箇所へ.けっこう人が来ていた.以上いろいろ行ったように見えるかもしれないけど,これで一年分.まとめてしまえば5日くらいでこなせる量.

冬休みは来年度シラバス作成のほか,レフリーとか修士論文コメントとか学界関係の社会奉仕.NS-SHAFTってゲームにもはまっていた.

2002年

1月1日,パサデナでやってる,全米でも有名な Tournament of Roses パレードへ.うちから歩いて5分くらいの通りを通るので,テレビで始まったのを見届けてから出発.パレードがはじまった途端に先頭を歩いていた馬がとつぜんうんこをしたのは笑ってしまった.パレードの通りのひとつの手前の交差点に警備員らしき人が立って談笑していた.僕は何のチェックも受けずに進めた.袋に鉄パイプ(見物用のイスにしては長い)をかついでいた,すぐ後にいた人もチェックなしで通過していた.ミス・パレードの車は止まってしまって,牽引されていた.ナチュラルガスで動くという車も僕らのちょうど目の前で止まって,引っ張られていた.そんなわけでけっこう笑った.花をたくさん使った飾り物は芸術的ではないけど,ぜいたくで奇麗だった.

Saigon Plaza にアダルト DVD が10ドルであったとこの近況報告に書いた途端に,知り合いから情報.小東京の Japanese Village Plaza のすぐ北に何件かビデオ店があるのでそっちのほうが安いのではと.自分が発進する情報の質にかかわることでもあり,気になったので1月12日に飲茶のついでに寄ってきた.1st Street に「もろ見え」とか「まる出し」とか表に出してあるビデオ屋があった.これだろうと思って恐る恐る入ると,普通のビデオも置いているではないか.とりあえず DVD の値段だけ調べようと思って (わざわざ日本に重いビデオを持って帰りたい人もそんなにいないだろうから) 探すと棚4段分くらい日本発エロ DVD.だが値段が書いてない! お店のうら若き奇麗なお姉さんに値段を聞いたら,ものによって45ドル,35ドル,そして25ドル(30ドルだったかも)ということ.こちらは DVD でなくて静止画の CD であちらは動画の CD なんてことも説明してくれた.なーんだやっぱ高いはと思っていい加減に聞いていると,「おみやげですか」とお姉さん.値段を見に来ただけと答えるのもなんだから,「そうじゃありませんよ.こっちで見ようかと思って」とか適当に答える.だいたいどうやって日本に持ち込むんだろうとか考えていた.あとでその話を人にしたら,おみやげと答えときゃいいのにと言われた.「このひと,自分で抜くんだ」とお姉さんに思ったはずだよと.わー,そうなんだ.けっこうはずかしい.念のため,あと一軒寄ってきたが,やっぱり高かった.小東京の表通りは高いのだろう.

いったんアパートに戻った後,パサデナのすぐ北にある Mt. Wilson の上の Observatory にはじめて行く.くねくねした山道は,日本の山の道路と大差ない.着いたときはちょうど夕日が沈んだところだった.夕日をバックにした人影が奇麗だった.海もそれほど遠くなかった.空はすぐに暗くなり,街はすぐ灯でいっぱいになった.

それにしてもダウンタウンとパサデナをつなぐ110フリーウェィはカーブだらけで,運転すると緊張する.ロサンゼルス周辺でもいちばん古い高速道路らしくて,もともと普通の道だったのをそのまま高速に使っているんだろう.倒れるからだろうか,トラックは進入禁止になってるし.そこをみなさん110キロ程度で飛ばすのだが,カーブに来ても減速しないのでサーキットみたいだ.僕自身,カーブで飛ばすので怖いとよく日本で指摘されたが,この道を走る人たちはそんなものじゃない.

1月14日,歯医者に行く.毎月12ドルちょっと保険料を払っているので,検査や普通のクリーニングそして簡単な虫歯の治療代はゼロということだった.しかしポーセリンのクラウンをかぶせる歯と歯茎の裏の歯垢を取る作業があったので,日本で治療を受けるのと変わらない値段になってしまった.

John Nash を知っているだろうか.上映中の A Beautiful Mind が,統合失調症 (精神分裂症) でプリンストン大学をさまよっていたこの数学者を描いている.しかし統合失調症って,体制に都合の悪い人間を黙らせるために利用されてきた病気なんだよな.夢だったか現実だったか想像だったか,区別がつかなくなっていることって自分にもけっこう多い気がするが.ナッシュと軍とのかかわりは,どこまでが現実だったのだろう.ゲーム理論とのかかわりでは,ナッシュ交渉解を考えたときのノートをナッシュが教授に見せて感心させているらしい場面はあった.でもナッシュ均衡らしきものは,映画の中で僕は見つけられなかった.

1月,日本から女の子が来る.おいおい,だいぶ太ったんではないか.数日かけて海の見えるサンタモニカ,有名大学 UCLA,高級なロデオドライブ,パサデナの屋外モール Paseo Colorado,工科大学 Caltech,観光客がよく行く眺めがいい遊園地 Universal Studios Hollywood,美術館 Getty Center,パサデナの Old Town 他,ディスカウント店 Target,グローサリーストア Vons などの普通の店,デパート Macy's,ディスカウント衣料品店Ross,カリフォルニア料理の Crocodile Cafe などに連れていく.ロデオドライブ,Universal Studios,Getty Centerは僕も初めて.彼女はロサンゼルスを見ることよりも買い物がメインのようだ.彼女は20代のはじめのほうで,まだまだガキだ.若いのはいいな.僕がやさしく見つめると彼女は見つめるなと文句をいった.べつにスケベな目で見ているわけではないのに.むかつく.それにしても彼女はなんでもおいしいといってよく食べていた.

Paseo Colorado の Macy's の Shiseido に東洋系のキレイなひと.僕が「このあいだここの資生堂にいたかわいい東洋人とはちがうけどなんかいい感じのひとだなあ」と少し離れたところからときどき見たり,あまり意味もなく目の前を横切ったりしたのがバレバレだったのかしらん,こちらにときどき視線を送ってきた.連れが話しかけたので分かったけど,その Takako という店員,僕(ら?)が日本人じゃないかって気にかけていたと.ああ,そう.日本の大学出てこちらでファッション (デザインだったかも) の学校に行ってるんです,私タカコといいますと,とても生き生きと話していた.キレイな人だなあ.日本のコスメの店員とちがうなあ.知的だなあ.なんかいいなあ.香川の学生にも楽しそうなのは多いけど,こういうイキイキした表情してないんだよなあ.なにかちがうんだよ.香川に連れて帰って学生たちに見せてあげたい気がした.

3月帰国.300に SuperShuttle に来てもらって,ロサンゼルス出発.Air Canada で.空港でビーバー (Caltech で買ったマスコット) のぬいぐるみの写真をとったり.バンクーバーを通り,大阪に21日夕方に着.

帰国後すぐに親戚の集いに高野山へ.今回は祖父の何回忌だっけ.おじやおばも何人か逝ったので,何年も前に参加したときよりも少ない.ミニ教団を率いている伯母はじめ来ていたおばたちは80歳近い人もいるというのに,えらく若く見えた.例によって持明院の宿坊に泊まる.宿坊ではあいかわらず各部屋に鍵はなかったし,お湯も出ているかどうかはっきりしなかったが,トイレ他の設備はよくなっていた.

日が開けて7時からおつとめ.うちの親族ほか,おばの教団の信者らしい人たち5人くらいもいた.後ろの天井付近の壁にはえらく古い人物写真が飾ってあった.おつとめ後は奥の院参り.今回は過去はスキップして来た伽藍,金剛峯寺などの周辺の見どころも見て来た.

父母を連れてレンタカーで高松へ.僕がいるときに高松に来るのは父ははじめて,母は二回目.小豆島 (「小豆島ブロードバンド放送」ではたとえばロープウェイの気分が味わえる)へ.車を島に持っていくほうが安いか高いかだいぶ計算したが,クルマの長さが思ったより短かったため持っていくことに.父母をホテルに迎えに言った後,フェリーで小豆島の土庄へ向かう.銚子渓,四方指展望台,寒霞渓では土産を買ってロープウェイに,そしてはじめていく岬の分教場と二十四の瞳映画村.寒霞渓は繰り返し行ってもいいところ.どこもけっこうな人出だった.帰りも土庄から.夕日が奇麗.

2002年度は奇跡的に委員が当たらなかったと思う.留学中の借りを返すため,授業はいままででいちばんコマ数が多かった.

4月.トイレの水漏れの修理.階下の人が文句つけて,うちが申立書を書いたもの.財務局は長期不在にしたうちが悪いからと,カネを払わないと主張.管理人は財務局が一度いったらひっくり返ることはまずないと言ったが,文句をつけた.最終的には財務局が折れて,修繕費を出すことに.

今年度前期の経済学概論 A (ゲーム理論とミクロ経済学; 夜間) の授業記録には雑談が多い.

8月.滋賀の金剛綸寺,河内風穴へ.いずれもはじめて.風穴はおおきな洞穴という感じ.涼しいが,美しいというわけではない.1930から長浜で北琵琶湖の花火.駐車する場所を見つけるのがむずかしくて,花火の音が2秒以上遅れる浜辺で見る.少し小さいが,湖面に映った光が美しかった.

9月.大阪から女の子.ひさしぶりに屋島山上水族館でアシカショーを見た.

11月.はじめて庄内半島へ.海岸寺に寄る.海水浴場がすぐだった.詫間町の民族資料館と図書館.詫間町誌の p. 554 頁に祖母の三原キヨの父,安藤清太郎の名前が高額所得者か何かで載ってた.塩田関係では名前は見つからなかった.荘内半島を一周し,紫雲出山の頂上に.観音時の琴弾山上から砂の巨大コイン,銭形砂絵を見たのは夜だった.緑色にライトアップされていた.

11月.土庄行きのフェリーで小豆島に.フェリーにはバスが3台.観光シーズンか.銚子渓をとばして,美しの原高原へ.どんよりと曇っていて遠くの島は見えなかった.寒霞渓ではロープウェイにのる.紅葉のピークは過ぎていた.昼食を済ませた後,僕はチョコレートやチョコケーキを買う.その後,以前は通り過ぎていた鷹取展望台へ.切り立った岩が並ぶ,いいところだった.岩の上に登ったりした.曇っていなかったらもっとよかったろう.

はじめて通る道を降りて,大部港を抜け西に海沿いに進み,道の駅 大阪城残石記念公園へ.屋形崎で土庄方面へすすみ,来たときの道に戻る.土庄にもどったあとは,干潮だったので砂州や岩を伝って YMCA の課外活動センターのある大余島まで渡った.満潮になると島が離れるらしく,その道は天使の散歩道とよばれるらしい.最後に土淵海峡をとおり,そのまま1630発のフェリーに乗り込む.

この学期は堤さんの日本政治にかんする外書講読に出席.

2003年

1月2日.はじめてのこんぴら参り.近所の駅からことでんに乗って琴平へ.電車はべつに混んでなかった.駅から歩いてけっこう急な階段をだいぶ上ったところが金刀比羅宮.どこから来たのか,人は多かった.いちばん上の本宮からの眺めはよかった.犬を連れている人が多かったが,代参犬のなごりか.帰りに五人百姓の加美代飴を買い,べつの店でせんべいを買う.

2月.入試関係の仕事の後,1430ころ高松を出て脇町へ.うだつの町並みを歩く.人は少なかった.焼きういろうを食べて,すぐそばのショッピングセンターに寄って,吉野川を渡った.

3月.共同研究のため隈部さんに会いに幕張の放送大学に.滞在中は,鷺沼である女性と会ってパン屋の喫茶で食事したり,新宿御苑でちがう女性と会って表参道でフランス料理を食べたり.

今年度は管理運営委員になったと思う.留学の借りを返すため,学部の授業は単位数は昨年同様.今年度ははじめて大学院生の指導教員になった.

4月.大窪寺へはじめて行った.寺の前の土産物屋でいなかこんにゃくを買う.みろく自然公園によって帰る.屋島の西までずっと一本道で帰れるようになっていた.

8月.研究の議論が済んだあと,隈部さんと小豆島 (「小豆島ブロードバンド放送」ではたとえばロープウェイの気分が味わえる).フェリーだと1時間.今回は高原と渓谷だけでなく海水浴にも行った.海水浴は20年以上行っていなかったのでは,数年前素っ裸で日の出前の庵治で泳いだのを除いては.シルバービーチという北東の寂れたプライベートビーチには,僕ら以外の客は誰もいなくて拍子抜けした.みんな無料のところとか,ホテルの多い島の南側のビーチで泳ぐのだろうか.うちのそばの庵治の海のほうがきれいだと思った.水に慣れたら体をほとんど動かさなくてもぷかぷか浮いてられた.塩が濃いのだろうか.1日に島が2度だけ繋がるという天使の散歩道は,今回見たときも繋がっていた.ほんとに海中に沈むのだろうか.やどかりがやたらいっぱいいた.

9月.大阪から女の子.笹尾海水浴場でいっしょに波の音を聞く.五色台にも.

10月.15時過ぎ家を出て,のどかな田舎町をドライブして国営讃岐まんのう公園へ.入ったのははじめて.きょうは入場料ゼロの特別な日で,コスモスフェスタの開催中.入り口にチョコレートコスモスが少しあった.わずかに咲いているのは,たしかにチョコレートの香り.園内ではコスモスを眺める.チョコレートコスモスは見つけられなかったけど,いろいろな種類はあって,花が大きかった.池を眺めたりしたあと,1815から10分間のまあまあのレーザーショーを見て,帰途に.

11月.大歩危と祖谷へ.紅葉にはちょっと早すぎた.琴平を通り,山を越えて池田を抜けて行った.帰りも琴平経由.大歩危へは高松から車で2時間ちょっと.レストランまんなかというころから遊覧船に.岩はまあまあだったが,まんなかという建物が裏から見たらけっこうすごくて(崖にあるので駐車場など地下部分がむき出しになっている),そちらも写真を撮る.遊覧船には25人以上乗れるが,たまたまいっしょに乗り込んだ女の子にけっこうかわいい子がいたので,密かに写真を撮る.でもあんまりよく撮れなかった.

祖谷ではかずら橋へ.行く道は細くて混んでいた.おおぼけ同様に,年配の客でいっぱい.かずら橋からすぐ40メートルくらい離れたところに,平行にふつうの橋が架かっているとは知らなかった.細いけど鋪装はしている祖谷街道を通って帰る.途中,むかしの人が度胸試しにおしっこをしたという小便岩があった.高層ビルのない時代のことだから,たいしたことはないんじゃないかと思っていたが,その岩は確かに遥か底にある谷に突き出ていて,現代人でもじゅうぶん度胸試しになる高さだった.飛び下りたらひっかかるところがない感じなので,度胸試しの最中のひとの背中を冗談でも押してはならない.

11月,ひさしぶりにパイプオルガンの演奏を聞きに善通寺の四国学院大学へ.バッハの Fantasy and fugue in g minor, BWV 542 を生で聞くことができた.フェリスに数年間いたという,演奏者のジェームズ・ドーソンというひとの流暢な日本語にも驚いた.雰囲気のあるこの大学の建物のいくつかは,旧陸軍のものを受け継いだらしい.赤門筋とか本郷通りとか文京町という地名もあって旧陸軍や善通寺(お寺)で有名な善通寺は,街自体がこじんまりとした玩具みたいで不思議な世界だ.明治時代や大正時代の独特の建築物も街に残っている.「街のどこをどう歩いても明治から昭和初期にかけての建物群が,当たり前のように点在する 」と読売新聞の記事にも載っている.リサイタルのあとソウルという韓国料理店で食事をしていると,ドーソン様ご一行もやってきた.

2004年

2004年に香川を離れたのは以下のとおり (これがすべて):
1月 宮崎旅行
3月 幕張出張 (2003年度で唯一の出張)
7月 大阪大学出張 The Seventh International Meeting of the Society for Social Choice and Welfare
9月 北海道旅行

1月.初詣は霧島山へ.高千穂峰ふもと付近に行くのは記憶にあるかぎりはじめて.霧島神宮に参ったあと,目的地である高千穂河原へ.そこに13世紀まであった霧島神宮の跡がある.ミニ教団率いてる伯母がありがたいところだというんで行ったら,ほんとに感動ものだった.あかっぽい頂上をした高千穂峰を背景に,明治時代の鳥居がある境内は建物はなくて,参拝者も僕ら以外は数人程度.雰囲気はいいところで,007の映画の舞台にもなったらしい.高千穂峰の中に基地があるとかいう感じで.僕らは霧島スカイラインに抜けて韓国岳のふもとを抜けて帰ったが,ふもとで以前硫黄が吹き出していたところは今はすっかり枯れてしまっていて,黄色くなった岩とにおいだけが残っていた.

3月.隈部さんに会いに放送大学に.今回は僕が Nakamura number の話や Arrow's thoerem, G-S theorem について説明することにほとんどの時間を費やした.

海浜幕張駅の北口で6時にある女性と会うことになっていた.寒くて風が強い中,ずっと待たせれて,もう来ないんじゃないかと思った.すると640ころ,車を道に停めているといって,慌ててやってくる.車に乗ってすぐそばの飲茶福竜門というお店へ.飲茶を主に頼んで,おなかいっぱい食べた.小龍包,豚肉の湯葉巻き,彼女の好きな大根もち,五目焼きそば固麺,フカヒレスープ,水餃子,ジャスミン茶,肉まん.店を変えて,ケーキをひとつ注文して二人で食べる.僕はカシスオレンジを飲みながら,とりとめもない話.

高松に帰る途中,岡山の後楽園にはじめて行った.後楽園は中州にあり,城も近かった.川の見えるところで甘酒とぜんざい.庭は単純な作りで,ひろびろとしていた.帰りは路面電車で駅まで.

振り返ると,今年度は後に GSM として認められる専門職大学院の設立にかかわる議論で消耗した.

新年度.大学は法人化され,私は新設の GSM (大学院地域マネジメント研究科) へ移った.大学院の修士論文指導も本格化.ひとりとはいえ,ひじょうに手がかかる.自分も興味ある非分割財の配分問題にかんするペーパーを読めたのは良かった.

今年度の公平の理論と実際 (夜間主演習)のログには雑談が多い.メンバーは三原ゼミを第一希望にして来た奇特なひとたちばかり.

9月.49,800円の底値のパック旅行で北海道へ.高速道路は使えないし道ばたには木々がなぎ倒されているし,しょうがないところだと思ったら,長居をした台風 18 号のせいだった.そういえば当日,伊丹発の僕らより前の便はすべてキャンセルか引き返しだった.僕らの便は東京に戻るかもという条件付きで新千歳空港へ出発したのだった.北海道大学のポプラ並木もだいぶ倒れたと全国ニュースに出ていた.

最初の日は予定になかったすすきの泊.ホテルに着いた後,札幌の大通公園と時計台を通って北海道庁旧本庁舎の前に来たが,木が折れていて中に入れないようだった.すすきのに戻り,歓楽街を少し歩いた後,適当な店でジンギスカン(マトン)を食べる.炭火で例のジンギスカン用の鉄鍋で食べた.おいしかった.ラムとマトンは日本ではほとんど生産されないらしいので,北海道は産地というより消費地だ.消費財でありながら,こんなに消費地の偏った輸入品って珍しくないか.その後,回転すしでウニなど高いものばかりを食べる.

2日目.札幌・すすきのを出発し,砂川や旭川を通って美瑛の岡,富良野で昼食.曇っていて大雪山はあまりよく見えず.お昼はジャガイモとトウモロコシを立ち食い.フラワーランドかみふらのに行って,その後牛のいる風景などもときどき見ながら (それほどいない) だいぶして阿寒湖.こちらは典型的な観光地の温泉という感じで,小さな土産物屋がいっぱいあった.暗くなっていたので摩周湖はあきらめて宿泊地川湯温泉の川湯グランドホテルへ.質素な温泉宿を宣伝文句にしていて,夕食は給食みたいな感じ.温泉は硫黄がきつかった.

3日目.温泉宿だけど朝食はバイキング方式.天気は最高.摩周湖も周りの山々も奇麗に見えた.摩周湖周辺は硫黄山や屈斜路湖などあって,えびの高原のようなところだった.知床には海の店なんかもあって,見かけは九州あたりとたいして変わらなかった.オホーツク海に出て買い物屋の前の海に触れた.冬には流氷がたくさん来るという.知床展望台からまわりの景色を見る.残念ながら北方領土の見える場所ではない.オシンコシンの滝に寄り,知床半島を離れるととつぜん雨が降り出した.花のない小清水原生花園を通り抜け,網走の旧刑務所の門の前を抜けて,網走の海辺でいくらどんの昼食.海を見ていても,あまり北の海という感じがしない.その後内陸に向かううちに,雨は止んだ.北きつね村という小さな動物園で十匹くらい外に出ていたきつねを追いかけて写真.流星・銀河の滝を見て,層雲峡温泉へ.最初の日に泊まる予定だった層雲峡観光ホテル.部屋からは石狩川の急流も見えていい感じだった.夕食も意外に良くて,旅館風のものが食べきれないほど出た.

4日目.層雲峡を出発して流星・銀河の滝や不思議な形の岩のある渓谷をバスから眺めた後,砂川で立ち食いして,新千歳空港へ.途中,大雪山などは奇麗に見えた.羽田を経由して伊丹空港へ戻る.

2005年

2005年に香川を離れたのは以下のとおり (これがすべて; 今年度は出張なし):
[8月 隈部さん香川に来る]
9月 北海道 (道東) 旅行
二度葬儀関係で関西

1月.ことでんに乗って金刀比羅宮と善通寺.金刀比羅宮で裏参道入り口から入ると,まだ坂にさしかからないところに宮司さんの家らしきお家を発見.檜作りかなにか.数日前に雪が降ったためか,お宮の地面は濡れていた.帰りは五人百姓のところで飴を買って,2年前と同じ紀ノ国屋で舟舟せんべいを買う.卵が入った大判焼サイズのお好み焼き,たこ判を橋のそばで食べる.

善通寺の駅で降りるのは初めて.ここの駅は文化財かなにかに登録されていて,けっこう古い.そこで降りるひとは限られていた.入り口の戸を引いて開けるようになっていた.お寺に行く途中に讃岐宮の護国神社によったら,おとそを出された.飲んだけど払わずに次の乃木神社へ.ここは賽銭なしで参って,善通寺に.善通寺には駅から歩く人よりも自動車できている人がだいぶ多そう.犬の連れ込み禁止とあったが,犬を連れている人も多かった.大きな五重塔があって,京都あたりにある本格的なお寺の感じがした.四国ではいちばん境内の広いお寺らしい.帰りはいったん琴平に戻ることになったが,善通寺に止まる列車が少なくて50分くらい待つことに.

年度を振り返って.思えば GSM はあまりにも多くのことを先送りにした状態ではじまってしまった.自分は今年度は内務委員をやったが,委員長のスピードの遅さに悩まされ続けた.重要な仕事の大半は,底辺のわれわれが非公式に進めなければ前進しないありさまだった.こんなにマネジメント能力のない組織ははじめてだった.一方,いっこうに解消されない経済学部との対立にも悩まされた.経済学部は土地や教室や助手をすべてキープした上で「助手分」と言って予算を奪ったり,GSM 教員が経済学部の授業を担当しても助手を使わせなかったり,よそへ移った教員にたいする慣例を無視して試験監督を要求して来たり (これは GSM も受け入れた),GSM の充実のためについた予算を全額パクろうとしたり (これは学長の仲裁で半々になった),我々の目から見ればやりたい放題だった.その一方で GSM は授業を担当してくれる経済学部教員にまともな待遇を与えることができない問題もあった.ほとんど誰にも支持されない弱小組織が大学にできるといつもこうなんだろうか.年度末にはストレスで精神状態が危険になってしまい,医者からストップがかかるに至った.

今年度のグラフ理論とネットワーク最適化 (夜間教養数学) のログには雑談が多い.当初,女子学生4人中3人は僕のようなタイプが苦手そうに見えた.でも,学生に迎合するつもりはまったくなかった.厳しくも親切に補講をし,ひたすら仕事に徹した.学生も安心して質問できるようになった.そういうやり方で理解を得られるとはかぎらないが,今回は結果的に全員が楽しめる雰囲気になった.「今までで一番、授業と先生と一緒に受けた友達とを近くに感じられた授業だったと思います」との感想をもらった.多少ペースを落として学生が安心して質問出来る雰囲気を作るのは効果的だが,そのためにはたくさん自習してもらうか補講をするか単位分教えるのをあきらめるかしないところが (特に人数が多くなると) むずかしいところだ.

「単位制度が要求するだけの自習を学生がしなくても教員の責任ではないし,(それだけでは) 授業を改善する必要もない」という安井さん (大学教育開発センター) のような意見ではそういうジレンマは生じず,単位数分教えるのをあきらめる (あるいは学生の満足度を下げる) ことになるだろう.学生が必要時間勉強しないのは確かにその学生の問題かもしれないが,そんな学生に単位を与えてしまう教員はもっと問題だ.改善が不要というのはおかしい.単位数分をまともに教える (結果的に合格率を大幅にカットする) などの方策は必要なはずだ.遅すぎる改革は失敗する.いろんな変数が連動しているところで一部を取り出してもうまくいかない.道路を右側通行にするならば,いっぺんにやらなければならない.こりゃ例が分かりにくいかな.

4月.庵治「世界の中心で,愛をさけぶ」の映画に出て来たブランコ.

6月.ひさしぶりの府中湖と沙弥島,はじめての瀬居島,そして五色台を深夜ドライブ.満濃池のゆる抜きをはじめて見た.

8月には祖母が亡くなった.どうせ私は葬儀には来ないだろうと思った家族は連絡さえしてこなかった.祖母は祖父と婚姻関係になかったこともあって,家族はお墓の場所さえ知らないらしい.

2006年

2006年に香川を離れたのは以下のとおり:
春 金沢
春 延岡,高千穂,阿蘇
夏 関西
[8月 隈部さん香川に来る]
その他一度関西

金沢蓄音器館では蓄音器の音が生で聞けた.

前期水曜1時限目に郭さんの生産管理システム論に出席.あまりにも実務的すぎて自分には向かない感じ.しかしオペレーションズ・リサーチを将来担当するために,一度はやっておくべき科目かもしれない.

明石海峡大橋の見えるパーキングエリアで冷房つきの観覧車に乗った.もともといい眺めが観覧車に乗ることでそれほど変わるわけではなかった.

そういえば直島にも行った.香川でローカルのバスに乗ったのは初めてか.

第二学期は「資源配分と公平」「配分ルールと厚生」の視聴覚教材 (音声ファイルとメモ) の作成にだいぶ手間取った.

2007年

2007年に香川を離れたのは以下のとおり:
11月 愛媛の別子はな街道.

1月.庵治半島を数ヶ月ぶりに一周.道が良くなっており,細くて一台がやっと通れていた部分 (ダンプに出会ったことがある) はほとんどが消えていた.想い出を求めて古い細い道に入って行ったら,行き止まりになっていた.もはや昭和の気分に浸れる路ではなくなった.

夏.屋島西町の宿舎が2009年頃ころ取り壊しになるため,引越した.


三原麗珠

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