[詩の墓場へ]
(Thanksgiving の朝)
総括
(流れない水洗トイレは)
ある固定された点からの風景
うたた寝
再構築された音楽
追憶
はだかのスカートたち
猫の首
それヲ、それデ
愛と美のパラドックス (meta-poem)
正義の見方
無題 (9/4/94)
抜いた手を焼く作品
カ、ケ、ラ、
エロチカのための習作
もどっていくの
熱帯夜
(オレンジ色の風が)
綿菓子
墓碑銘
社会・選択・公理
解決
にゃぁお
序文
Variations on the themes of
Turing and Blum
女屋
傾向的な夜
ケインズ
土曜日の Friday afternoon
誕生
ア・スナップショット
酒場で
返答 I
Reply I
ある種のひじょうに鑑賞の困難な映像に関する詩
火曜日の論理学
駄作 3/27/94
流れ
詩 3/15/94
経済分析
断片 (3/13/94)
これは試験
(Thanksgiving の朝)
三原麗珠
Thanksgiving の朝
川の見える病院の屋上の食堂で
フレンチトーストとソーセージと
ポテトとハムとオレンジジュースと
カフェラッテの朝食をとりながら
ぼくは自殺を考えていた
その週 ぼくの詩の
「ぼくの業界でもっともポピュラーな
死因は自殺だ」
を実行した男がふたたび現れたのだ
男はその詩「伝道者」を読んでいないはずだが
とりあえず彼の飛び降りた橋はここから見えている
フレンチトーストにナイフを挿しながら
彼の落ちていく光景を繰り返し想像し
シロップいっぱいのそれを味わう
多弁で社交的な彼は
ぼくの詩のいくつかには目を
通すほどの関係だったのだ
この場所からは橋の付近の川面は見えないが
休日のためか
ひとびとの流れも緩やかに感じられる
捜索の舟も今日はお休みだろうか
ぼくはポテトをほおばり
稲川方人の詩を思いつつ
橋の
水面からの高さと
着水時の角度などを解析し
落下を執拗に復習する
死ねるだけの高さがあったのだろうか
彼はぼくの詩を評価せず
観念をもてあそんでると言っていたが
それはどうでもいい
ただ
「死」と「落下」はべつに
いつものこと
なのだが
ただ
「橋」や「流れ」そして
「川」が 最近
傾向的に現れていなかったかと……
ただ 考えつつ飲む
カフェラッテが口に暖かい
表面が茶色の泡で覆われている
わからないことが多すぎる
今度の事件だった
だがいつの日か彼は
べつに望まないぼくの詩の
格好のモデルにされているだろう
緩やかに流れていく川をぼんやりと眺めつつ
Thanksgiving って何だろうと考えながら
ぼくは朝食を続けた
註:
1. 「伝道者」は1993年5月の作品。
2. 稲川方人の「償われた者の伝記のために」に
「(わたくしには/死ねるだけの高さがあったの
である)」とある。
(December 10, 1994)
総括
三原麗珠
部屋に入ると 10人以上の男たちが私の方を向いて椅子
に座わっていた 私は用意された椅子に座わった なか
のひとりが私に 私を総括せよと命じた 私は総括され
ることを許さない存在であり 私はいかなる要約をも拒
む というわけではないので 私は私の総括をはじめる
ために鞄から人形を取り出した じつは私のすべては彼
らのうち選ばれたものにすでに手渡されていた 彼らの
うち選ばれたものは私のすべてを手にしていたので こ
れから私のおこなう私の「総括」は私のすべてから抽出
される私の一部であろうと考えていた 人形は私をかた
どった人形であり 私のすべてがそこに総括されていた
私は私をかたどった人形を机の上に置き その人形に
ついて話しはじめた その人形は後ろ姿その他にかなり
のごまかしがあったが 前方と左右から見たかぎりにお
いては完璧に私を反映していた つまりその人形は私の
完璧な像であった その人形の後ろ姿が男たちに見えな
いように人形を配置して私がその人形について話してい
ると 男たちのひとりが私に人形についてでなく私につ
いて話すように要求した 私は私自身について話すこと
は困難に思えたので 私は私自身について話すことはせ
ず私の人形に私自身について話させることにした 人形
は私について饒舌に話しはじめた だが彼の話す私は私
とはかなり違っていることが私の気にかかりはじめた
私は思いだしたのだがその人形は私を総括して創られた
ものではなかった そうではなく私がその人形を拡張し
て創られたものだった それに気づいた瞬間私は机の上
にあり私の座わっていた椅子には人形が座わっていた
人形は私について話していたのだが男たちのひとりが彼
に私についてでなく彼自身について話すように要求した
彼は彼自身について話すことを困難に思ったのか 彼
は彼自身について話すことはせず私に彼自身について話
させることにした 私は人形について言葉少なく話しは
じめた 男たちのだれひとりも私に人形についてでなく
私について話すように要求しなかった 私は人形につい
て言葉を選ぶように話したがその言葉は私を完璧に総括
したものだった 総括は終わり人形は私を鞄にしまいこ
んだ 総括を命じた男が満足そうに人形を見た 人形は
用意された椅子を立ち10人以上の男たちが彼を見つめる
なか部屋を出た
(December 10, 1994)
(流れない水洗トイレは)
三原麗珠
流れない水洗トイレは問題だ
それは彼あるいは彼女自身にとってのみでなく
彼あるいは彼女の生きている(あるいは死んでいる?)
社会にとって
問題だ
流れない水洗トイレを放置すれば
悪臭が漂い
彼あるいは彼女を
使用しないひとびとにさえ迷惑だ
流れない水洗トイレは
その存在だけですでに問題なのに
流れない水洗トイレをわざわざ
使う男がいる あるいは女が
いる
毒には毒をもって制す
つもりかどうかは知らないが
悪臭が悪臭を制しても
悪臭であることに変わりはない
社会問題を
自乗するだけだ
流れない水洗トイレは問題だ
だがそれはだれにも解決できない問題ではない
しかしそれは君には解決できない問題なのだ
だから君 お願いだから
流れない水洗トイレを救おうなんて
間違っても 考えないでくれ
(December 10, 1994)
ある固定された点からの風景
三原麗珠
浮いたり
沈んだりする手で他者の生存がわかる
世界の自転の中心軸で
私は季節の宿題を残したまま
ゆるやかに過ぎていく声を聞いた気がした
冷たい雪が降り
他者はいく度もそれを繰り返した
作品を成就した空気が皮膚を刺し
凍結した小舟になって忘却へと流れていった
低すぎた橋の上から
高すぎる空をぼんやりと眺めていた
書きかけの手紙のインクが私の指に絡みつき
螺旋状の模様を描いて消えていった
川面に氷がつくられはじめ
世界が過ぎていくのをはじめて感じた
(December 10, 1994)
うたた寝
三原麗珠
ベッドのない閉じた箱のなかで
思春期のきみは目を閉じている
外部ではレコードが回転し
規則性の強い音楽を奏でている
真昼の夜行列車が都会のお花ばたけをすべっていく
ゴールドベルグ変奏曲を
彼女は目覚めて聞けない
緩やかな傾きから
不連続な落下への
反復が微笑する
夜行列車の夢みる銀河は
未来へぼくらを誘いこむベクトルなのに
思春期のきみは ひざの
青春の出版物でかくさずに
生殖器をゆるめて
前方へ落下をくりかえしている
知性ではじまる傾向的な単語たちがダンスする
弛緩した頭脳には グルドの
変奏曲が流れていて
ぼくのやさしい犯罪者の
硬直した針が きみの
髪たちのすきまをすべり
なめらかな逆行の音色を奏でる
現在から処女へと誘いこむ
きみの髪の中間の
処女のおわりはじめた部分に撫でられた感蝕で
ぼくはきみの夢を目覚めて
ひとたび下車する
英単語のような花たちを摘み
急がれた経験の記憶をぼくで置換し
ふたたび乗車する
ぼくらをうたた寝する星空の夜行列車
またたく世界を外部に置いて
ぼくらはおなじ夢をみている
はずだ
だがきみはふたたび
ぼくの肩さえよりも
前を愛しているの
という方向に傾いてしまう
電車で
女子高生がとなりにすわっていた
ひとりで
うたた寝をしていた
(October 30, 1994)
再構築された音楽
三原麗珠
未来時制の砂漠が怒りのカーテンを食す都市
方法を潰したテーブルが地底からころがり落ち
私の負傷したドアの規則に関する鏡を
光もなく弾きはじめる
流れてゆくピアノ 流れてゆく憂鬱 流れてゆく少女の屍
教室に風景のある
学校で極限を習う
校舎の上に毒薬で横たわったおひめさまの
形をした雲がある
風の方向を伝える器具には
天然と人口の素材からなる灰色の
家屋がこびりつき
鳥たちが出入りしている
うう私が位置を失蔦は時刻であるからを喉に
、構造の解溶するでド ラマのよな
歪められた血息の熱いをてがふ、る、え
地状の棺の方向 をでも肌のうすい
痛みとでちりちりに焼きる死、詩、写真こと
とと、時 の記憶、気を苦……蔦えた痛い遺体た
音 は過去が聞いていた
光 は現在が聞いていた
私 は未来が聞いていた
私が愉快な屍でありはじめたとき
きみたちは高原の建造物の葬列をなす
形式に縛られた牛乳瓶の時計のように
はみだすことをしないクリスタルの完成をもちいて
ゼリー状の私の夢を批評し
貧困な手法の適用の限界への収束をしめした
区画された都市と
林や埋められた靴たちの
羅列 そして 音 のする ドア は
一滴の笑いにも値しないが
連続性を保ちながら
屈折した言語で語りかける
夢を表題に持つカーテンのある鏡は
私の愉快な屍の
像を反射する不連続への指向がある
私は賞賛する老人たちのドアを打ち砕き
現在形の殺意のオアシスで応える
あらゆる透きとおった都市のあいだで
あいまいに反射する葬列を爆破し
あらゆる透きとおった都市のあいだの
音のある壁をことごとく処刑する
(October 17, 1994)
追憶
三原麗珠
死者は一名
きょうは飲もうよ
メモリアルな時間にしたいの
いいけど
ポケットベルで呼び出されるかもしれないけど
無表情なあなたの
ことばが読めない
気持よい死体が気持よい夜空に落ちていくのが気持よい
ねえ 故郷のこと教えて?
故郷?
人口15万
温暖な気候
産業は化学工業
市長は知らない
川があって
川が二本あって
それらが交じわうところに長い鉄橋が架かっていて
海のそばだった
なぜだか知らないけれど
たぶん二本の鉄橋でなく
一本で済ませるためかな
僕は中洲でなく
二つの川の南
海のそばに住んでいて
近くに火葬場があって
ごみの焼却所もあって
死体とごみの煙を吸って
育った
父はアル中
母はドイツ帰りの医者
ごまかしはあるけど
前科はなかった
鉄橋の下には川原があって
いつも工事をしていて
バッタがいて
いつも怪我をして
看護婦さんに薬を塗ってもらった
看護婦さんは若くて
君よりやさしくて
君よりきれいで
君より純情で
君よりも……
混沌とした夢を見ていた
大声で叫んでいるのだが
叫んでいるのが自分なのか
噴水なのか
わからない
いや
私は噴水の
水だったのかもしれない
つまり
叫ばれる対象
いや
叫ばれることばが
私だったのか
闇が私を掻き乱した
闇に私が散っていった
自分としては精一杯やってきた
父のようになるなと母は言わなかった
死んで行くひとへの感傷はなかった
自分の技術の低さのみが悲しみだった
自分で満足できたことは一度もない
気持よい死体が気持よい夜空に落ちていくのは気持よい
ねえ 神話が残ってるって本当?
神話?
ポケットベルが鳴る
今夜はこれでおしまい
それは僕でなくてもできることなのに
これで今夜はおしまい
(October 9, 1994)
はだかのスカートたち
三原麗珠
円筒形のドームを抜けてきょう
女子大生は成人式? それとも
都会の芸者?
緑のゼリーは 緑の
ゼリーのような
味がするわ
もうすこし近くにねと
笑ってる猫
鋭い角度から
社会を視てるのね
はだかのスカートたちがゆらゆら
ぼくをとり囲む
逆光ではだかの
スカートたちの
影だけが
風に揺れている
旗たちだから
きょうは独立記念日
痛みの唇
夜の底を私は歩きつづける
夜のどこに底があるの?
星たちは今夜はおやすみ
きょうは闇もおやすみ
星のない夜 空が明るい
ぱさぱさに乾いていく私
あるいは 牛
乾燥の牛が
こちらを見つめている
意表を突く
牛はいつも左を向いている
ものだと思っていたわ
絡んだ髪から逃げだせない午後
なまぬるいさみしさが私の庭に流れつく
恋人のように
無口に
小舟にのって僕らは死んでいくのだね
中途半端な死に方を出来るのね
緑のゼリー
鋭い角度で社会を視る猫
はだかのスカートたち
出発だね みんな
都会の庭から
さみしい小舟に乗って
闇のないぱさぱさの夜空の底を
円筒形のドームを抜けて
(October 9, 1994)
猫の首
三原麗珠
猫の
(今朝 右翼は疲れている
首を
(あるいは 冴えている
とった
左翼が、
……
左翼が猫をつかまえる
猫を
とった左翼が
猫の
首を
飾る
左翼が猫の首を飾る
そ、
の、
栄光
栄光の 左翼
あらゆる左翼は昭和の 汲み取り式便所に墜ちよ
Kは大学で有害物質で繁殖するバクテリアを研究している
彼の建物には同じネズミがいる
コピーの ネズミたち
ネズミ たち の栄光
ねえ サ、ヨ、ク、
すべての者がひとしく
糞尿に浮かぶ社会は スバラシイ
の?
「……」
沈んでいるみたいだ
トテモ冴えた 朝だけど
ぼくは流せない
(September 27, 1994)
それヲ、それデ
三原麗珠
妻が結婚した子供ができた
妻の友人が来た出産の会話をした
ついでに乱れた生理と
失敗した性交の具体例などでもりあがり
いくつかの事物が
口にされた
妻の
友人は美しいひとだ
と感覚する私は それを
平気に口にされ黙っている
むかし でもないが
東京大学教養学部教養学科相関社会科学の
フェミニストの女学生を泣かした
ぼくを
好きです と言った次の朝 つつまれて
平和な頭痛で
考えられなかったが フェミニストが
ぼくを 出来て
嬉しかったです
とは主義にあっていた
こころ の時代の名残りもあった
美しい妻の友人は、
妻の美しい友人は 唯物主義者だ
唯物、
主義者の性交はやはりマンネリだ
あとで妻から聞いた
相関の 彼女は
ぼくで 出来て
よかった
(September 27, 1994)
愛と美のパラドックス
三原麗珠
愛と美の関係については語りつくされている. だが直感
的に受けいれられるような公理系から愛と美の関係にか
んする厳密な命題が証明とともに提示されたことはあっ
ただろうか.
愛の公理 (ゲーテ)
いつも変わらなくてこそ, ほんとの愛だ,
一切を与えられても, 一切を拒まれても.
すなわち愛はあらゆる変換の不動点であるというわけで
ある. つまり愛は存在しない——というのがゲーテの主
張だったか, われわれはこれだけでは判断できない. そ
こでいまかりにゲーテの主張の真意は愛の不在定理にあ
るのではないと仮定しよう. そうすると不在定理を回避
するため, われわれは「あらゆる変換」という言葉の意
味を明確にせざるをえない. ここではいたずらに哲学に
走るのを避け, 簡単化するため, 変換とは愛からなる集
合を部分集合として含むある集合 A からその集合 A へ
の写像 f であるとする. そして集合 A や愛からなる集
合の定義にかかわる問題は無視し, それらは与えられた
ものであるとする. さて, われわれは変換 f たちからな
るあるクラス C を固定する. この場合前述の不在定理
を回避するため, クラス C に属するすべての変換 f につ
いて f(x)=x となるような A の要素 x の集合 L は空では
ないとしよう. この場合 C は L に属するすべての x に
ついて f(x)=x となるような f の集合 Cユ の部分集合にな
るが, Cユ は空ではないことがわかる. いいかえればそれ
によって愛を変わらぬものとする変換は確かに存在す
る, それはたとえばなにものをも移動させない変換 (同
一写像) の存在を考えれば明らかである. だが愛を変わ
らぬものとする変換とはなにか? もし愛のみでなくすべ
ての A の要素を固定してしまうような写像, つまり同一
写像, のみが愛を変わらぬものとする変換だとした場合,
愛と愛でないものを区別する手掛りが失われてしまい
「一切を与えられても, 一切を拒まれても」という言葉
から感覚的にあきらかであるとこの愛を区別しようとす
る指向に反してしまうと考えられる. したがってわれわ
れは C の要素 (それらはどれも愛を変わらぬものとする
変換にちがいはないが) のなかに同一写像でないもの,
すなわち動点をもつもの, がふくまれるとする.
われわれは「あらゆる変換」とは「C に属するすべての
変換」であると理解する. すると集合 L は愛からなる
集合を部分集合としてふくんでいる.
美の公理 (ゲーテ)
「移ろいやすいものだけを
美しくしたのだ」と, 神は答えた.
すなわち美はほとんどすべての変換の動点であるという
わけである. いまかりにゲーテの主張の真意は美の不在
定理にあるのではないと仮定しよう. そうすると不在定
理を回避するため, われわれは「ほとんどすべての変
換」という言葉の意味を明確にせざるをえない. われわ
れは上述の手続きにしたがい,「ほとんどすべての変
換」とは「C に属するほとんどすべての変換」であると
理解する. (このとき C 上 (のあるブール代数) で確率測
度が定義されていて, 通常の方法で「ほとんどすべて
の」が定義されているものと考えるのが自然であるが,
それは形式的には導入しない. いまの段階では「C に属
するほとんどすべての」はたんに「C のある (まえもっ
て選ばれた) 部分集合に属するすべての」ということと
する.) 美からなる集合 B は C に属するほとんどすべて
の変換 f について f(x) が x と異なるような x の集合の
部分集合であると理解される. ここで B が空でないよ
うにとれるための条件をみつけることは美の不在定理回
避の観点から意味のあることだが, それは練習問題とす
る.
いまここでもっとも極端な場合として, B は C に属する
ある変換 f について f(x) が x と異なるような x の集合
であると仮定する. すると B は L の補集合となってい
る. すなわち美は愛ではありえず, 愛は美ではありえな
い. 一般には B はいま考えた特定の B の部分集合とな
ることから, 愛の存在を前提としてただちにつぎの系が
得られる. (じつは愛の存在を前提としなくてもこの系
はなりたつ. ただしその場合, 系の後半は正しくは「あ
る愛が存在してその愛は美である」の否定と理解される
べきである.)
系 美は愛ではありえず, 愛は美ではありえない.
これがゲーテの「愛と美の不可能性定理」である. しか
しゲーテがこれを定理として提示したかどうかは不明で
あり, 厳密な証明はごく最近になってはじめて与えられ
たばかりである.
われわれはゲーテの両公理のもとでは愛と美は両立でき
ないことをしめした. この結果はひじょうに否定的なも
のである. われわれはこの不可能性定理をどう理解すべ
きだろうか? まず考えられることは定理の証明が誤って
いるかもしれないということである. その疑いを取り除
くためには読者ひとりひとりが綿密に証明をチェックす
ること, あるいは定理を証明しなおすことが必要である.
この手続きが実行され, 読者が証明の正しさを受けいれ
ているとしよう. (現時点で証明を疑う者はほとんどい
ない.) この不可能性定理にたいする第二の態度として
考えられるのは愛と美の関係の理論化のためには上のフ
レームワーク自体が妥当でないとする立場である. この
種の批判はとくに哲学者のあいだから出されていて, そ
のなかでも中心となる批判は愛と美を含む集合 A の定
義の妥当性にかかわるものである. 彼らの主張の骨子
は, 愛はそれ自体エンティティーとみなせるが美はそれ
自体エンティティーとなりえずあくまでもあるエンティ
ティーの属性であるから同じ集合に属するようにみなす
のは誤りであるというものである. 彼らの批判にたいす
る哲学的逆批判はあるのだが, ここでは省略する. ただ
彼らの批判の最大の弱点は彼らが上のフレームワークに
代わる理論的フレームワークを提示しえていないことに
あることをつけくわえておきたい. 最後に不可能性定理
にたいする第三の態度として, その結果もフレームワー
クも基本的に受けいれたうえで新しい関連問題を探求す
るというものがある. 以下ではその代表例をひとつだけ
あげる.
愛と美は両立できない. だが愛と美の両者にかぎりなく
近い状態というものが世界に存在しないだろうか——愛
でありながら美にかぎりなく近い状態, あるいは美であ
りながら愛にかぎりなく近い状態, あるいは愛でも美で
もないがそれらにかぎりなく近い状態, の存在可能性は
まだ否定されたわけではない. 愛と美の「境界」上に位
置するある限界状態が世界には残されているかもしれな
い. とくに人間の識別能力の曖昧さを考慮した場合, こ
の「愛と美の境界問題」を避けてとおることはできな
い.
愛と美の境界問題の理論化のための鍵は上記の集合 A
にトポロジーを導入することにある. このさい A をハ
ウスドルフ空間とすることは以下の理由により強すぎる
仮定だと判断する. その理由とその解決は数学者のため
の練習問題とする. (以下省略)
疑似解説. この実験的メタポエムは理論化一般, そ
してとくに規範経済学 (あるいは社会選択理論) にお
けるセンの自由と効率性両立の不可能性定理, のアプ
ローチにたいする反省を意図して書かれています.
(September 17, 1994)
[解説] 理論として上の作品をみた場合, 愛と美について
ほとんどなにもふれていないと読者は思うでしょう.
「アプローチにたいする反省」とはジョークと言いかえ
てもいいでしょう. 詩として上の作品をみた場合, 愛と
美についてなにもふれていないといいきれますか?
正義の見方
三原麗珠
揺れているあなたは無言で
それ に気づいていないことを装うひとみで
沈んだ表情をして耐えているようにぼくには見えている
あなた 他人
正義はひとを
エッチな気持でたすけてはならないだろう
ぼくは新聞も テレビも読まない
したがってセーギの
芸能リポーターなどがあがりこんで
無い茶の間で コーヒーの
茶菓子をしたりしない
それからぼくは私有するマルクスも
ロールズも見ない
よって正義を論理的に考えたこともない
さらにぼくは遠い なぜかたびたびよく暑い
国で虐げられたひとたちを知っている
かどうかよくわからない
ひとたちを
知らない
つまりなにも 考えない
たとえば知りあいが飛ぶ
ちょうちょうを
つかまえても環境は破壊されない
なぜなら生態系を壊す森林開発では
ないからと
言うのに反論しない
虐げられたあなた 他人
ぼくは手を差しのべるべきなのか
ぼくは熱い浜辺に打ちあげられ乾燥しはじめた
ヒトデたちを海に投げ戻す
ひとの話を思う 彼らを救うためと
無駄だよ世界にどれだけ
そんなヒトデがいると思っているのかい
「このヒトデ には大きな違いさ」
公平の原理を破るひとの話を考える
彼女を目の前に
正義は手を差しのべるべきなのだ
電車は走りつづけ車内は他人だらけだ
あなたはだれの干渉も求めないかもしれない 乗客は
どうせスケベ心から出た親切の装いくらいのものだろう
というくらいに考えるであろうとぼくは見ている
たしかに正義の
桃太郎はたすけた
女と寝た
やっかいなことに
この場合その女性が美しい
ことが問題を複雑にしている
問題は彼女が美しいこと
鶴のように
じつは彼女は鶴かもしれないのだ
かりに彼女が鶴だとしよう
男が雪の日
女をたすけた話があった
おとぎばなしだ
彼女はその後男の妻になるのだが
男はたすけた女だということを知らない
彼女に連れられて 海の底
中華料理のレストラン兼宴会場のような
つまり古典芸術よりももっと
美しい竜宮場で
彼女と寝るのだが
ある日彼女の箪笥の引き出しを
こっそり開けると
稲刈りのこびとたちがいて
じつは彼女が売春で 男のために
稼いでいた
ということがわかってしまって
雪女はみごとな
天然素材の織物と箱をおいて
融けながら
月の世界へ去っていってしまい
男は地上に戻り
玉手箱をあけていわゆる
浦島太郎現象を起こして
とかいう話だったが
ぼくは話を知っているので
浦島太郎現象のおきる前の
竜宮場あたりまでを
経験した段階で地上に
戻ればそれなりに
いい部分を残しつつ
悪い部分を経験せずに
済むわけで
このおとぎばなしが
じつは電車の乗客にも常識だろうと
いうことから判断して
やはりエッチな気持だろうと
誤解される危険はかなりあるのだ
正義は手を差しのべるべきなのか
玄関がガラリと開いて 本物の
正義の味方が「ごめんください」と
入ってくる
「奇麗なお宅ですね」
「サングラス持ってないんですか」
「私たちの地球は私たちの所有物ではないのです」
「最近は女のひともするんですね お茶しませんか?」
「私たちの地球は私たちの子孫からの借りものです」
「あの壁の鹿の剥製いま買い手を探してるんですけど」
「だから私たちは自然環境を守るため……」
ぼくは正義の味方と友達になりたかった
「お姉さんて水虫になったらどうするんですか?」
正義の味方は去って行った
「お姉さんどんな下着 着けてるんですか?」
と聞きたかったのに
「正義の味方は棉とか絹じゃだめだろうから100% 化繊な
んだろうか?でも化繊だと生産するとき汚染せずに済む
のだろうか?」
電車で揺れているあなたの合成素材の服の
肩の部分に落ちた一本の髪
正義は手を差しのべて
その一本を取り除いてあげるべきだろうか
(September 17, 1994)
無題
三原麗珠
夜にもたれて立っている
黄色い悲しみの標識が大声で笑いながら倒れてくる
私の部屋が空の内側へ落ちていく
窓の外側つまり空の内側は一枚のガラスの境界の向こうだから私はガラスを割る
崩れ落ちたガラスで右腕を切り落とす
窓の外側に右腕を取りつけて「切りとられたさよなら」と名付けオブジェにする
闇が私を守りすぎるので世界の肌が恋しい
マッチをすって明かりにするため原子爆弾に火をつける
じゅうぶん明るい光にオブジェが映える
部屋にあったはずの本がなくなる
部屋さえ消えたので後片付けで半日つぶれる
引っ越しが住んで新しい部屋に入ると再び暗い
悲しみが笑顔で通りすぎる
「痛みのない人生は可能ですか」と
社会主義国なみの雑誌でからくり人形が話しかける
突然地面がなくなり私は落ちていく
からくり人形が同じ言葉を繰り返しながら落ちる
左腕とない右腕で彼女を抱きしめようとすると首がはずれる
人形が口からヘッドライトのような光を発したと思った瞬間私はトラックにひかれる
内臓を醜く破裂させながら私は痛みのない人生のからくり人形の唇を奪う
ひかれた道路から立ち上がりからくり人形の首を左腕にかかえて私は去ろうとする
地面がないので私はころびそうになるが地面がないのでころびようがなく途方にくれる
人形の髪の間に指を絡ませて賑やかなさみしさの手触りを確かめる
ぐちゃぐちゃの身体から血が出なくなる
冷たくなっていくので焼却炉に飛び込む
からからのかえるたちが順番待ちをしていて列が長いのであきらめて帰っていく
帰る場所がないので空を意味なくながめる
時間が空から剥がれてきて冷たくなった身体にまとわりつくので時間を脅す
脅された時間が取引を要求するので受けいれる
原子爆弾が爆発する
身体がだいぶ熱くなったけれどなくなってしまったので病院に行く
病院で身体を作り直してもらおうとするけど身体がないので言葉が発声できず医師と意思疎通の手段がない
それにもかかわらずない私を笑う物語があるので殺そうとする
物語は自分を殺すとその一部である私もいなくなってしまうというので考え直す
という部分も物語は記録し続ける
私はもうどうでも良くなってきたので眠ろうかと思う
もちろん地面がなくても空中で寝ることは可能だが身体がないので眠ることさえ不可能だ
物語をなかったことにするため消しゴムでけすことも考えたがコンピュータスクリーンで作られた物語だから消しゴムが使えない
からくり人形がすべてを知っているはずだがどこかに置き忘れてしまったので行を逆行してたどりつこうかと考える
だが自己言及のパラドックスが怖いと躊躇した瞬間
からくり人形の首がない地面に落ちて砕けてホホエム
(September 4, 1994)
抜いた手を焼く作品
三原麗珠
さて手を抜いてみようと思うのだが
どこにも挿さっていない手が抜けない
私の予言で今年
ノーベル賞をとるらしい
教授のパーティーは明日だが
湖はとなりのとなりだ
いまどきは
学生たちが新しいロゴの紙袋で闊歩する
涼しすぎる季節だ
楽譜の袋のような
コンテンポラリーなデザインがいい
朝はやく大学病院の上のレストランから
橋のかかってる風景が見えて
二本かかっていて
水面に写っていて
いい
これで抜けた
あとは焼くだけ
フレンチトーストは安いのだが
オレンジジュースが高いのだ
栓のある飲み物は買わない
朝 6時50分の地下道を通り抜けていく
病院の廊下には絵が掛かっていて
現代化されたエジプト風の様式で
戦国大名の旗と兜が描かれていたりする
そして遺体ではないのだろうがベッドに乗せられた
体が移動していたりして
エレベータで八階まで上る
八階でおろしてあちらの
手術のようなキャップと水色の
白衣のひとたちに
注文するJAMAを手にした医師たちの
間にカルバンクラインとポロの
シャツと眼鏡のいわゆる
典型的な私が交じっている光景がある
40年前おそらく
書き言葉を持たなかった
アメリカとともに戦った
モングの人びとに決って
病院で会う
エレベーターで出合う
でもレストランで出合わない
ベトナムかラオスの若い医者たちと
離れて湖の多い
都市を見ながら恋人に
したかった少女へ手紙で
書いた橋を思いだして
朝食をしている
まだ消息も確認されていないのに
「遺族の方々」がそちらへ向かったと
報道するアナウンサーは
手を抜いたわけではない
二つの橋でこちらに架かったのは
ゴルバチョフの通ったものだ
湖から二つめのハーヴィッツの逃亡した国だ
韓国料理とくに
ユッケを食べたいが
韓食をいっしょにする友人はデトロイトの
となりのウインザーへ行ってしまった
カナダの言葉を話せるのだろうか
けさ知らない韓国女性に電話をもらった
間違い電話なのだ
私は帰りにガムボールを買うのだが
中毒的だ
ウインザーは川の向こうにあるから
税金が高いはずだ
あの声は耳に
すてきだ中毒的だノーベル
平和賞を
抜きそうだ
さてガムを噛みながら
ノーベル賞の挿さった場所を探している
抜いた手がいっぱい詰まったので
これで焼けたことにし
終りにする
(September 3, 1994)
カ、ケ、ラ、
三原麗珠
過剰な風景が微笑する地球の岸辺
クラシックな小鳥たちの囁きを忘れた
プラスチックな恋人たちよ
君たちを挑発する岩石は
君たちのなかにある
君たちは恋のあらゆる手法の実験を
超えた場所から出発しなければならない
僕はアイスクリームと君に 雨の阿蘇で会った
噴きあげる言語の 石の溶解
弁明するわけではない
表現としてはそれでいいのだ
あちらへ渡ろうか? 不可能な対岸へ
移動する僕らの完成の放棄は
流れおちる溶岩の白色の感覚によって信仰だ
私は振り向く
私が振り向いたそのとき
一万年が過ぎている
千里の草の馬たちの一瞬を
一瞬回繰り返す
未完成した模倣が僕らの方法だ
イイエソレハ嘘デショ
宇宙ノ波ハ魂ノカケラナノデス
ソレハ私タチノ内部ソレ自体ガ零レオチタ破片ダカラ
完成シタ悲シミトナッテ打チヨセテイク
愛デス
過去 君たちは破壊した
破壊することに飽きて
破壊の破壊を目指した
破壊を破壊することに飽きて
破壊の破壊の破壊を目指した
一万年の批評を通過した君の
湿り気のある唇へ
一万年の技巧を放棄した僕の
湿り気のない唇を
僕は重ねる
終着した直喩の記号のように
崩れ落ちた私の破片を拾って
それを砕き砂漠にする
たしかにそれは乾いた砂漠だから唇だ
だが形のない唇だ
つまり古典からは遠い形式なのだ
雨の砂漠で君は接吻する 砂漠に
つまり僕に
その精糖された感覚はあらゆる世代の批評を耐えてきた
その精糖された感覚はあらゆる世代の技巧を超えてきた
そしてそれはクリームの甘い一片として記録されている
ということはありえない
いかなる正統な恋も芸術と同様
保存を拒むからだ
私の恋は正当だ
イイエソレハ嘘デショ
宇宙ノ涙ハ魂ノカケラナノデス
ソレハ私タチノ内部ソレ自体ガ零レオチタ破片ダカラ
完成シタ愛トナッテ打チヨセテクル
悲シミデス
(August 22, 1994)
エロチカのための習作
三原麗珠
目の前に横たわるそれ
私は口にすることができない
透きとおる下着の少女がいるように
透明な肉体をとおして骨が
透過しているそれを死んで
いるそれの 上に置き
ならべて置いて
食しはじめるのを待つ
パンティーが透きとおるように透き
とおっていたあなたのからだは濁りを増し
私にそれが悲しい
熱イトテモアツイ
コンロのなかの 水の思い出
食いつく 懐カシイ痛ミ
跳ねあがる食卓の空は
海底の色彩にねじれる
記憶はじつは自分の 夢の消費をしていたのだろうか
今日という位置 私の領域は東西だ
透明な生が 濁った死と共存する力学は
超越した
寿司たちのネタなのかもしれない
箸を突きさし
濁った目をえぐりだす
零れ落ちる球体は
水泡の来歴を凍結した
醜い真珠なのだ
屈折した傷の角度が
火傷の網の目のように刻印される
あらゆる虹の 過去は解凍され
熱い愛液が 朝のない皿の表面に溢れる
(8/16/94)
もどっていくの
三原麗珠
たまごみたいにまあるい
たまご ぷくぷくぷく
たまご
ころころ
あたたかいわ
あたしの生まれるところ
ちょうちょうみたいにいとしい
ちょうちょう ゆらゆらゆら
ちょうちょう
ふわふわ
のはらで おいかけています
のはらの おわるところ
ちょうちょうは がけのうえで
まっています
ゆめみたい
まっていてね
ちょうちょう おいかける
がけ おちる
そらから たまご おりて
あたし つつんで
そらへ
もどるの
ひとびと やってきて
けいさつ やってきて
あたし はこんで
おしまい
たまごみたいにまあるい
ひつぎ ぷくぷくぷく
くうちゅうで あたし
ころころ
あたたかすぎたわ
あたしの生まれていたところ
ちょうちょう ゆらゆらゆら
しろい まあるい
ひつぎ ふわふわ
(July 16, 1994)
熱帯夜
三原麗珠
ミシシッピー川の
リバーサイドの
アパートの
川の見えない一室で僕は追想する
ホテルに行こう
ホテルに行くかわりに僕の部屋に行こう
ホテルに行くかわりに僕の部屋に行くぶんの
浮いたお金でワインを飲もう
だから夕食はおごってね
だったら夕食もおごってね
まあいいか
まあいいや東京だ
東京だからいいでしょ
さて
この詩はどういう意図で書かれたか
以下の選択肢から選びなさい
と書いたところで電話がかかって来た
……戻って続けようとしたとき
もうそこにはないのだ
人生とはこのようなものだ
たいせつな
ものも中断されたとき
もう どうでもよくなってしまっている
と安易な抽象を急ぐ若者よ
君は知っているか
世界にはテレビを所有して
いても使ったことのない人種がいることを
暑い
蒸し暑い熱帯夜
ほたるの飛び交う川原で
花火を遊んだ幻のような夜
その夜を追憶することによって
僕は耐えていた
その感覚はもう忘れてしまった
詩人は本当にほたるは
冬とぶものだと思っていたのか
「蛍の光/窓の雪/などとペアで/
覚えたからいけないのだ」*
さて冷房の
きいた部屋でまみこさんの痛みについて考える
鯛焼きのかわりにアメリカだから
ポテトチップスで考える
おさかな 食べられなかった
ボクはおさかな 怖かった
テレビがいつもそうだったから
もっともポピュラーな
強姦は過去に
肉体関係のあった男女の間のおはなし
世界から切り離されることを望む私は
たがいの痛みから逃れたい
シナイ
だが逃れることもまた痛み
スル
だからお前は痛まなければならない
お前は痛みを感じていなければならない
*荒川洋治「ほたるのひかり」『遣唐』
(July 10, 1994)
(オレンジ色の風が)
三原麗珠
オレンジ色の風が
そっと 私の白い
脚を撫で
弁明もせず通りすぎようとした
幻想の空間
あなたのための風穴は その
部分ではないと
いいたい気持を抑えるようにしんみりと
私のなかを飛行機が通り抜けていった
きのう三毛猫の眠った坂を這いあがる蛇
彼女はほとんど垂直な
土手をのぼることも出来たはずだ
私は私のからだを坂の上に横たえ
夕暮れの時刻をやり過ごす
あたたかい風穴となって
そして風穴は
つめたい朝をむかえる 坂の上に
横たえたまま
(July 10, 1994)
綿菓子
三原麗珠
透明の袋のなかに
引き裂かれた叫びがある
脚とか唇とか耳の
なまなましさはない
あなたの髪よりも細く
産毛よりも柔らかに
繊維状のあなたが
口のなかに溶けていく
(July 3, 1994)
墓碑銘
三原 麗珠
世紀末の真昼 空に島がはばたきもせず浮かぶ
島はくじらだから 白い
焼きいもを思いだした
こたつの中で革命の
足がぶつかる
音がする
ふわふわとくじらが翻弄するので
空を剥ぎとる
布団を剥ぎとる
血が流れて空は新しい
あなたの脚のあいだ 赤い
猫はいつもそこにいた
変換されたくじらはかえるだから
くじらは跳ねる
くじら 跳ねる
手を伸ばしてくじらをつかまえようとする
空はうでの長さより遠いので届かない
つかまえたと思ったときもういない
特権階級の座席と焼きいもで鑑賞するように
傍観する猫の時代は危うい
暴かれた布団のあいだからこぼれ落ちて
空にぶつかる
こなごなにくだけた焼きいもの破片は
くじらの一部を形成する
たえきれない島のまわりを
焼きいもをもとめて猫がさまよう
跳ねる島
跳ねる 猫
空は踏み荒らされるのがいやになったので
空は自分を剥ぎとる
血が流れる
空は新しい
手を伸ばしても届かないから
今度は右手でする
あなたの脚のあいだ赤い
あなた 跳ねる
死ンダ猫 ウツクシイ
死ンダくじら ウツクシイ
死ンダかえる ウツクシイ
あなたは寝る
白い破片を拾って 空に
焼きいもたちを埋葬してあげる
「世紀末の島」の墓碑銘が
瞬きもせず浮かぶ
(July 3, 1994)
社会・選択・公理
三原靈珠
——みずからは何ものをも意味しないのに、
存在すること自体が価値であるといったもの
がこの世界にたしかにありうる。 吉本隆明
嘔吐
その名を知り その
名を記す
広場はとても暗いので 部屋の
灯りを点ける
一本の矢が私の頭蓋を突き抜けていく
繰り返される 矢
複製される
それ
あなたを ひとびとは当然のように思う
与えられた意味そして 名
だれもあなたを知らない
広場は死体
広場は鳥の死骸でいっぱい
だから 広場は世界
あること ないこと あろうこと
不可能な 不完全な
吐き気
あなたはいる それに矛盾はない
あなたはいない それに矛盾は
ない
あらたな謬ち 不確かな
構築された
それ
一本の矢が私の頭蓋を突き刺していった
(June 5, 1994)
解決
三原靈珠
人は生の困難な局面に直面したとき
温泉に浸かって割れた竹筒の
内側の曲面を流れる
直線的な素麺をすすり
上流の紳士あるいはおじさんと
緩やかな接続を求め
それを通り抜けてしまおうと
想像するのだが
指はいつも多様体の
表面への性向が高いので
黒髪を素麺と
誤認したと
口のなかに許す
隙間を与えてしまうのは
穏やかではないからと
しんみりと流さず
ひとり
素麺と直面しつつ
浸かっていようとする
割れた竹から
爽やかに現れた
かぐや姫が
僕を助けてくれる
だが違うのだ
現代社会におけるかぐや姫は
テロリズムの擬装戦術だから
長い黒髪で皮相的な微笑を微笑むが
指を接触した瞬間 温泉の
お湯は空間に拡散してもう
空なのだ
微小に分割した曲面は位相を失い
こなごなに空中を舞い
ちぎれた私の肉片と混じりあっている
そこにあったとしても
おだやかに浸かることなく
接続の強い形態として
溶けあうことなく 解決のように
爽やかに
世界と混じりあっている
(May 29, 1994)
にゃぁお
三原靈珠
幽霊に足はあるか。これは来世紀の科学の最大の問題で
あると言われている。猫に美的センスはあるか。これは
来世紀哲学の解明すべきもっとも重大な課題であるとさ
れている。まず始めに明確にしておかなければならない
ことは幽霊に足があるかどうかという問題は医学・生物
学その他既存のリサーチプログラムのパラダイムのフレ
ームワークのセッテイングの枠組の
(いま窓のそとに雪
女が通った 冷たい
白い肌が地面にふれる)
転換あるいはシフトなしにはあつかえないというたとえ
ばエイズ研究に見られる重点の人為的なすり替えからお
こる研究配分の非効率性に例示される科学の官僚化によ
りひきおこされる科学の自発的自然発生的性格や創造性
の窒息に代表される停滞から自然科学を解放しなければ
ならないというレベルにとどまらず自然科学を越え心理
学・人類学その他を内包したあるいは交わりをもつ新分
野・死物学の発展によってのみ十分な解明が期待出来る
といういわばパラダイムの革命的創造の必要性である。
死物学の世界的権威とされるホンコン国際総合科学大学
(世界的権威だとかそういうことはどうでもいいが)イ
ヤン・コレ・オットセイ教授は雪が降っていたわけでは
ない夜、女の足の裏を彼がくすぐってっていたときその
足の裏をイヤン・コレ・オットセイ教授によってくすぐ
られた女が「いやん」と発声した時点において彼自身が
その女の生きていることを実感したことに霊感を得て
幽霊は水虫になるのだろうか とか
幽霊は足の裏をくすぐられたら
「いやん」
というのだろうか
など、死物学の基本的問題を一晩のうちにリストアップ
したそうである。死物学はその到来をここに見たわけで
ある。周知の事実であるがイヤン・コレ・オットセイ教
授は科学者としてのみでなく国際的前衛芸術家としても
有名であり(国際的に有名だとかそういうことはどうで
もいいが)実際彼のラボにはミケランジェロという一級
の三毛猫がいてその麗しい姿を実験死物たちの前につね
にさらしているのだ。イヤン・コレ・オットセイ教授の
(同僚のひとりではないがたまたま)ラボの向かいにそ
のビルを持つ哲学科のニャンコロ・ウー・ワン教授はミ
ケランジェロを毎日窓から眺めてはミケランジェロの美
的センスの可能性について美学の論文の案をねっていた
のだが考察を重ねるにつれミケランジェロの美的センス
の可能性はミケランジェロの見かけほど単純な問題では
ないと認識しつつあったところニャンコロ・ウー・ワン
教授のいる哲学科のビル——それ自体イヤン・コレ・オ
ットセイ教授のいるビル、すなわちミケランジェロのラ
ボのあるビル、の隣だが——のとなりのコンピュータサ
イエンスビルディングでは名もない若い学者たち(当然
名前はあるのだが)が人口知能について「悲観的」いい
かえればその限界を強調した見方が大勢を占めていた。
ニャンコロ・ウー・ワン教授はそれらの認識論にかかり
うる問題にはふれずに幽霊の足についての論考、そうで
はなくミケランジェロの美的センスの可能性について論
考をすすめる予定であったが(ところでミケランジェロ
が死んだら幽霊になるのか、ミケランジェロの足を持っ
た?)人口知能のめざすべきは、たとえばチューリング
テストに代表されるように「人間の知能」のシミュレー
ションではなく、「ねこの知能」のシミュレーションに
あると結論し隣のビルへでかけていった。若い科学者た
ちは協力的な態度でニャンコロ・ウー・ワン教授に対応
し、その結果「アーティフィッシャル・ミケランジェロ
・インテリジェンス・プロジェクト」がここにはじまる
のである。「アーティフィッシャル・ミケランジェロ・
インテリジェンス・プロジェクト」は人口知能の分野の
みならず、その認識論あるいは美学への直接的関連のた
め、哲学をもまきこんで世界的な注目を浴びている。
(世界的だとかそういうことはどうでもいいが。)
幽霊に足はあるか。猫に美的センスはあるか。いまこれ
らの人類にとって最大の課題がイヤン・コレ・オットセ
イ教授のラボ、そしてそのラボのミケランジェロにヒン
トをえたニャンコロ・ウー・ワン教授らの「アーティフ
ィッシャル・ミケランジェロ・インテリジェンス・プロ
ジェクト」により解明されようとしている。
(May 19, 1994)
序文
三原靈珠
おふろ出たいの
手をこれくらいちょっとね
そういうわけ ライフ
悪ってば淫売がすけべ (櫛やリス
はふるいぞ)
淫交で経済 政治倫理哲学 決定
理論的死のパンティーのラップでべろを ピンとフィット
ねえってば (スチールそうめんをうどんで)
いつ 脚痛い?
一般的にはブラを そうさ
プランをいい娘に
〈特別に
異聞のメッセージを中心に
あろうことにも不可能
性定理
(のはずのクリスタル)
淫奴 矢野教授の
べろ賞では 社会選択の
哲学的あるいは分配的淫婦のパラドックスは
いまだ明確ではない〉
サンタの辛抱を
あざ笑ったパラドックス
痣のチャレンジ
(ああ ディスコが 壁)
この僕 あと苦労が戻ったら
さみしいと ひとつ
橋のように 異句なく
「会って」と
リスポンスする
(5/19/94)
Variations on the Themes of Turing
and Blum
三原靈珠
I
裂け目
つよい意味での
裂け
目
の彼女
プラスチックの森
ガラスの小犬が走りぬける
きのうが 小犬のしっぽにからみつく
透明の小犬
あしたが小犬のしっぽにかみつく
固定された点
の周辺
動く小犬
点は不動
小犬は動
感動的なものはなにも
私を感動させない
(彼女のミニスカートほどには)
不動でないものはなにも
緑色の血液で 真珠をつくる
キモチ イイ
人造ダイヤはまあるくできないから
ディジタルな旅を夢みてる
カチカチの法則
コチコチの小犬
周辺を回る規則性を描写しよう
プラスチックの キレイな
とても
流れる血は アナログではないのだから
きっと
私の名前で私を描写する 不動点定理で私
存在する
まだできない
神託がいるのかしら
オラクルで
走っているコ・イ・ヌ?
決定論と自由意思の関係について
ギルボアの哲学を読む
この場合 関係ない
方法であることに違いはない
II
透明の
ガラスの
ガラスの透明の
透明のガラスの
小犬
小犬透明のガラスの
透明の小犬ガラスの
透明のガラスの小犬
緑の
緑の透明のガラスの小犬
透明の緑のガラスの小犬
透明のガラスの緑の小犬
かわいい
かわいい透明のガラスの緑の小犬
透明のかわいいガラスの緑の小犬
透明のガラスのかわいい緑の小犬
透明のガラスの緑のかわいい小犬
透明のガラスの緑の小犬かわいい
彼女
透明のガラスの緑の小犬かわいい彼女
透明のガラスの緑の小犬彼女かわいい
透明のガラスの緑の彼女小犬かわいい
透明のガラスの彼女緑の小犬かわいい
透明の彼女ガラスの緑の小犬かわいい
彼女透明のガラスの緑の小犬かわいい
彼女透明のガラスの緑のかわいい小犬
彼女透明のガラスのかわいい緑の小犬
彼女透明のかわいいガラスの緑の小犬
彼女かわいい透明のガラスの緑の小犬
かわいい彼女透明のガラスの緑の小犬
III
普遍的なプログラムでも
できないからと
ひらひらと すきまに
入りこむ
ことが出来たら
感動する
ただし大きな部分で
最高のものはないから
だんだん速くなる
プラスチックの風
だんだん速く吹く
子犬が
彼女が
風で舞い上がる
どこまでも
いちばん高い部分がないから
いちばん速い部分をめざして
きのうも あしたもないわ
かみつくことが出来ない からみつくことが
スピードアップ
ギャップを埋めるんだ
オラクルがあるからきっと
出来るとおもう
小犬 たちが走りぬける 都会の
対角線の周辺を
(5/12/94)
女屋
戦争協力詩なら私にまかせなさい
原稿料に応じて何枚でも
注文通りに書くから
ただでもいいよ
ただし 内容の
注文はなしね
戦争協力詩なんてだれも書かないだろう
詩人は
作詞家にまかせてしまうだろう
戦争協力詩を書きたくても
戦争がない
日本語を需要する戦争がない
もっと悪いことに
戦争協力詩自体の存在価値がない
現代の戦争は詩を求めない
「女のくせに高みから女を見ている」
女が「女の詩」という文章を載せた女に言う
「あなた女屋になるつもりなの」*
無批判な戦争批判で芸術だと言いはる
同じ論理で私も「女屋」
この前もいた
原稿料よかったらしい
(May 3, 1994)
===
註:
*高橋順子「普通の女」(『普通の女』1993)より変更引用.
原文を以下にあげる.
「女の詩」という文章を雑誌に載せたら / 「あなた女屋になるつもりなの」 /
と女の人に言われた / 女屋というと女でたべていく職業である //
「女のくせに高みから女を見ている」 / といった女もいるそうな / 女のくせに
/
女のくせに / と子声の大合唱 //
男がわたしに言ったこと / 「白髪を染めろ」 / 「年をとるな」 /
「普通の女でいろ」 //
さあこの普通の女が難しい / 女屋にきかないといけない
--
---この屈折した自己言及おもしろい.
傾向的な夜
三原靈珠
眠れぬ夜は もの思いにふけっていて
思いだせない
ほど昔のことですが
古典の時間 それはオナニーを
してたと
いうことですかと質問したら
現代国語の先生 ああ忘れちゃった
おまえ 女の子のくせに
級友たち
じゃなくてひとりが言ってくれた……
先生 現代国語なら
伊藤比呂美
知らないのかなと言おうとおもったけれど
それ以来現国の
独身の演劇なんか好きな教師に
特別な
かかわりの強い視線で
見られ始めちゃった気も
しましたが
やっぱ
何にもなくて私は
正しい生徒で卒業したのです
「詠む」と書けば
詩歌をうたう
私の場合 思いにふけるは
誰も詩歌なんかうたわないから
うたうものではないから
私の場合もの
思いにふけるは
頭のなかで詩が溢れる
眠れぬ夜は詩が溢れる
たとえば今朝の実証では
1950 つまり
19時50分に床に就き Tatjana Sergejewa
など 聞きながら離れた場所に眠気とともに移りたい
と思いつつ場所を引きよせようとしたのだけれど
メビウスの環 悲しい
歴史のなかの女性
そして この不思議な暗さはとても不安
図形や映像で想像するのが普通で
底を流れるこの不安な響き
チューリングマシンは超えているはずなのに
いつか もの思いは
言葉でなされている
シーツを引きよせて
眠れない2200
トイレに行く
言語では情報処理効率低いから
CD みたいにメガバイト使ってしまうのに
詩人のように
する
言葉をレーザープリンタ用の紙に置いて
ベッドに再び落ちる
それでも
夢幻列の想像力は収束を許さず
いつか拡散のはて
私は0045起きる
マックを起こしキーボードに日本語を
打ちこんでいく
演劇の脚本 書いてたくらいのひとなら
わかりそうなもの
これらのことば 詩か?
なんて
詩は詩を離れるベクトルなのです
離れていく方向なのです
これらは散文に
近いから
詩の
テーマを避けているから
詩です
と偉そうなことを書いてさらに
つけくわえる
簡単に書けると思うなら
やってみてください
すると
簡単に書けてしまうひとがいたりするから
詩人つまり
失業者の私は
両肩の距離が小さくなるのである
才能あるひとは除外します
そして詩語は使わない それは常識
でも本当に普通の言葉で書くなんて無理と
いうもの
私はこんなに普通で書くから
方向はいいのだけど
どうでしょう
こだわってるんじゃなくて
散文のように書くことに
信条なんかじゃなくて
たまたま
傾向なのです 私のと
いうよりは
現代詩の
傾向だから たまたま
それが
やりやすくて
のっているのです 先生
行分けはするけど それは
夜は早さが欲しいから
(May 3, 1994)
ケインズ
三原靈珠
ケインズが死んでいる
長期だ
ケインズがここで死んでいる
今は
ケインズが あそこで 死んでいる
つまり
ケインズが いたるところで 死んでいる
「長期的にはわれわれはみんな死んでいる」
ヒトラー ムッソリーニ ケインズ
ケインズ レーニン マルクス
法学部に行ったあいつ
高校でケインズのこと知った 名前と写真を
あいつに似てた写真を
あいつの母親は 危険な
薬が使えず 死んでしまった
他人の決めた安全な死を 死んでしまった
長期
に は
われわれ
は
みんな
死 ん で
い
る
つまり/今は/長期だ
共産主義国家 福祉国家 全体主義国家
マルクス ケインズ ヒトラー
ケインズ ケインズ ケインズ
社会主義 社会主義 社会主義
いまわれわれは死んでいる
こんなに早く死んでしまった
あいつは生きてるだろう
ケインズの言葉のように
アメリカのすべての大学の経済学部では
マルクスはさすがに
いなくて
教室の後の壁に ケインズの
肖像が貼られている
ことを知るものは年配の
時代に取り残された
学者たちくらいのもので
たいていは その講堂の建設に
寄附した資産家あたりと
思っている
ヒトラーもムッソリーニも短期
彼らは短期
われわれを殺した
寄附ではなく
税金でつくるだろう
彼なら
いつも政府は 国民の
ために 雇用機会を
提供するから
マルクスは長期
われわれを殺した
だがマルクスも
われわれを永遠に殺し続けることはできない
これら どの個人よりもとるに足らないケインズ
彼はわれわれを永遠に殺す
彼の約束どおりに
こんなに早く 長期
かれの言葉が生きているので
われわれはもう死んでしまった
アメリカのすべての大学の
経済学部で
かならず後側に つまり学生の
側にケインズ
の肖像が貼ってあって
若い経済学者は
ケインズに経済学を
講義する
かろうじてその名をヒトラーや
ムッソリーニの時代の
歴史で耳にした
経済学をわかっていない男に
若い彼らは講義する
写真がケインズだと知りもせずに
ケインズ
あなたは意見を
猫のようにころころと変えた
ねずみのように
ケインズ
私たちは肉体を
商品のようにかるがると扱われた
モルモットのように
いや 魂を実験動物以下に
われわれは魂に向かって講義する
世界を われわれを
死なせてしまった
魂に訴える
もう一度だけ ころりと
変えてはくれないか
むかしやったように 死んだ
理論をすててくれないか
ケインズ
あいつは結婚しただろうか
(5/2/94)
土曜日の Friday afternoon
三原靈珠
土曜日の Friday afternoon
空という空あらゆる空に私は私の名前を刻印していった
世界は他人でいっぱいだ
気流なのか季節なのか
記号なのか
金属製の雨樋をつたってあなた
プラスティクな歴史に
流れを記録しようとするものよ
地上は三人称複数形の言葉
で閉ざされている
いつも言語によって
埋められている
ああ われわれにとって セックスも
愛も費用
と
効果
の分析の対象に過ぎないものか
夢を流れにのせて追っていた
幻のような日々
れんげ畑の緑の液の
草の向こうの流れる用水路の
過剰な記憶よ
それらは方法を持たず
したがって
いつかはコンクリート
その他 古典芸術の題材と
なりえぬもろもろの
媒介を通し
私へ向かわざるをえなかった
意図は問わない 結果のみが問題なのだ
プロセスを省略することで
私は判断してきた
れんげ畑の
言葉の具象性も
私の感覚に生きることなく
多くの匿名の 記号のように
死に絶えた 言語としてのみ
自己増殖を繰り返した
土曜日の Friday afternoon
地という地あらゆる地から私は
あなたの名前を剥脱していった
(April 23, 1994)
誕生
三原靈珠
風が柔らかくひとびとの肌を撫で
リスが切断するリズムで跳ねまわり
緑が樹木を復活させる
抽象的に言えば
春
が来た
虐殺はこのような日に突然やってくる
というのは歴史のなかの昔ばなし
新しい昔ばなしにはあわないことがらだ
叔父がそこで死んだのです
それはそれはと ルーマニアの
彼女は笑っている
今度こそおしまいだ
生きかえることはないと
思う壁に緑を再生する つまり
生命を
蔦とは気持ちの悪い植物だ
からからに乾いていても
私の皮膚の底には血液が流れている
ある種のリズムで
くりかえしひとびとは祝ってきた
私は春に生まれた
二千年もたってはいない
からんだつるが
私を吸うとき 死んだ煉瓦ほども
茂らせることはできないだろう
リスが垂直の壁の
蔦をすべるように
降りていった
(4/16/94)
*My uncle died in Romania; he was working for an ink firm.
ア・スナップショット
三原靈珠
イイペン(一平)はUnixの端末でわけのわからないことをしています
レイチェル(Rachel)はテーブルで恋人と紅茶を飲んでいます
かずえはファックスで本社に報告書を送っています
艾(アイ)は東亜図書館で数理言語学の資料を探しています
スチーブは左手で漫画本を万引きしています
アヴィは機関銃で国境を警備しています
大統領はホワイトハウスで経済政策を計画しています
そしていくつかの国々は戦争で生命を消耗しています
猫が縁側で日溜まりのなか昼寝をしています
わたしはひまで詩を書いています
そのとき突然......時間が死んでしまった
(4/16/94)
酒場で
三原靈珠
くるくるくるくるくるくると
左のがでもだから 狭いなのにをとても警察
禁煙よりもブスお断わり正しいあるね
お手紙では合成関数のケーキ印刷しましたごみ箱
うっれぐが禅どでぶくらから空ってあほいよなあ
死者の書
死のしょ
詩書
いろりのそばで卵を温めたので私たち
哺乳類かもね
人生とはそのようなものとカセットテープ
するですよ
ベッドで聞えるあなたの時計
本質的なああかぎりなく本質的な鼻くそが咲いている
丘は頬なのですふれたいと
うつろいわたる でも
じゃあん!
不動点だもんね そうだもんねえ
そうですねえ
スッポンを飲みますか
瓦ないものがないなんてうそだ
ウップス
故郷の風景たちよ
彼女たちの日本人するをが会社派遣のおじさんとても
ええ会話学校で女子高生に教わる
ああ、年賀状ねいいもんね
肌が美しい白いなまなましいいい
揺れてすぎて暗くてすべてが美しい
るすですよ
るふえるここころが、うるうるするでり
あばんごしぐめせんばい上等性が理
むろむろ無論ろムロン事務のまされり
苦情を処理するはあしたのこと
あしたはやり直しの日だ
はやりなおす
もっと流行すると
自分でじぶんを言うことができる
自信
すべてやりなおせると思う
変わらない青春
始まる
宇宙を
返答 I
三原靈珠
21世紀も沈みはじめる夕暮れ
(死喩を使ってしまった)
21世紀も終ろうとする真昼
虚構としては現実的だが
窓の前でラーメンなどを食べ
空からはボールが転がり墜ち
小犬たちはたがいのしっぽを追っている
その程度の過失はゆるされよう
入学試験で歴史は選択しなかった
アメリカは外国だから世界史ということになるが
外国で後にシャワーを浴びたい
絵本を閉じて物理学の本を開いた
集団としてのぼくらはテレビを閉じて
私よりも若い先生に手をあげる
「子犬ってあたまいいんですね, せんせい」
「小犬はかしこいわね」
この空間には大学を出たひとびとが多いようだ
私も大学を出て入り繰り返しはするが
卒業というものをついに知らない
理学部の学生たちはビーカーでラーメンを作る 私は
芸術を意図したわけだから学位は(一応)無関係だ
世界の歴史も成熟した
それにもかかわらず私は
大学ではアメリカ製の洋式便所に腰掛けることをする
レベルの経験を持つのみだ
それではなぜ学生をするのかという質問もあろうが
アイオワのこの自然が私の師だ
アイオワの空と川と風 そして海とが私の詩をもっとも忠実に模倣する
と言う論理あるいは感嘆 では長期ビザがとれない
ということは一度も大学を卒業できないものにも
わかるのである
からだ
さて,
ここの窓の高さが嫌いだが
小犬たちのボールを捕まえるその運動は芸術だ
それを彼らは意図していたかどうか考える
二つ向こうが空いているはずなのに
わざわざとなりのドアを閉じる者がいる
嫌いだ
彼らはあんなに自由であるのに
大陸の春の昼下がり
このような近い距離で私は拷問を受けねばならないのか
ロールを転がす音
落ちていく音
同時に降ってくる水の飛沫
それは法則にかなっていない
と思う間もなく音とともに
非常に具体的な形態で私に降りかかる
この空間では論理も哲学も見いだせなかった
数理はかろうじて存在するが
論理と哲学のないとこに詩はない
詩はそれらと無関係だがそれらを超える
この空間に詩の場所があたえられていないのならば
この空間に個人は存在し得ない
大学で
その個人は確かにいたにちがいないが
私よりもさきに流して出てしまった
宇宙飛行士はどうやって大便をするのだろう
高校の数学教師は g(3) を
じいさんと発音したがここでは
g of three だから関係ないのだが そして
g は関数でなく あるコンスタントなのだが
彼は確かにこの g を使った
あるいは科学者でなく新聞記者かテレビのレポーターだったろうか
春の光あふれるこの昼下がり ミシシッピーを背景に展開する
ある科学哲学の教室の風景を私は記述しよう
実は
ここに虚構があって 本当は経済理論のセミナーなのだが
たまたまゲーデルとかが出演するため
スタンダードな経済理論ではないのだが
とにかく学生が質問をする
前後するがアイオワと書いたのは現在の私の状況ではなく
この国にはじめて来た時分のことである
田村隆一や吉増剛造も留学した土地だ
この詩は詩として書かれているわけだが
(ここで「この詩」とはこれら詩人
(この二人
(田村隆一と吉増剛造)
が詩人であることはこの空間のひとびとには周知だろうが念のため)
の詩をさすのではなく現在書かれつつあるこの
予定外の長編になりつつある
「返答 I 」を指している
(蛇足だが田村隆一の詩がこの詩の背景になっていると
思うひともいようが多分当たっている
吉増剛造に関しては意図的ではない)
)
「犬は微分方程式を解いているのでしょうか.
いや, 解いているといえるのでしょうか」
幼稚園の先生
小犬を賢いと呼んだ先生
そういう意味だったのだろうか
教授は答える「犬は微分方程式を解いている」
私がボールを21世紀末(原文のまま)の大陸の
小犬のように捕まえられないのは
私が微分方程式を解いていなかったからだとわかった
教授と私の違いは彼は大学を卒業している点にある
「それは意味論の問題ではあるけれど」
ああ論理学だ ゲーデルの
統語論とは違った モデルの理論だ
美をどう定義しようか 考えるのを
やめた
詩は文字の羅列だという以外どう定義できよう
滴はどのような軌跡を辿って私に届いたか
放物線か
窓の外の風が春を伝えている
古典力学の本を閉じて
汚物を流してしまおう
ところで
返答を書きはじめるに至らなかった
返答はシャワーの後に
(4/5/94)
Reply I
In an evening of the sunset of the 21st century
(that's a dead metaphor)
midday of the ending of the 21st century
too realistic for a fiction
oriental noodles in front of a window
a ball from the sky
dogs are chasing tails of each other
an error like this should be forgiven
didn't choose history in the entrance examination
the u.s. is foreign thus in world history
wanting to take a shower in the foreign country
i close the picture book; i open a book of physics
we closing the television as a collective body
i raise my hand in front of the nurse younger than myself
"the dogs are bright, teacher"
"the dogs are clever"
this space is full of graduates from universities
i go in and out of universities; i never graduated
students of science make ramen in a beaker my
intention was in arts; (basically) unrelated with a degree
in spite of the ripeness of the history of the world that i
sit at a university on a stool made in america
is the level of experience all i have
to the question why i am doing a student
that the nature of iowa is my master;
the sky, river, wind of iowa and its sea most faithfully imitate my
poetry
is not the logic or exclamation that permits me to get a long-term visa
is something obvious
even to a person who cannot graduate
that's why
well,
don't like this hight of the window
they are arts, those movements of the dogs catching a ball
i wonder if it is intentional
two doors from this is empty
somebody comes into the next door
i hate
they are that free
in the spring afternoon of the continent
why do i have to be tortured in this proximity
sound of a roll
sound of falling
a drop of water coming down at the same time
these are not consistent with laws of nature
i could hardly think before together with the sound
it falls on me in a very concrete form
no logic or philosophy could be found in the space
mathematics is scarcely existent
where there is no logic or philosophy there is no poetry
poetry is unrelated with them; poetry transcends them
if a place is not given in this space for poetry
there can be no individual in the space
at the university
the individual probably existed
went away flushing before me
how do they do with excrement, the astronauts
the math teacher at the high school pronounced g(3)
"jiisan" ("old man"); that
has nothing to do with this for it is g of three here and
g is not a function but a constant
he certainly used this g
or maybe he was not a scientist; a news reporter for a paper or a tv
instead
in the full sunlight of a spring afternoon with the mississippi in its
background
i describe a scenery of a classroom of philosophy of science
actually
there is a fiction here; the fact is that it's a seminar of economic theory
starring Godel in particular
so it's not a standard economic theory
a student puts a question
by the way i wrote iowa but it's not my present situation
it was when i first came to this country
it is the land where ryuichi tamura and gozo yoshimasu lived
this poem is written as a poem, but
(here, "this poem" refers not to those by the poets
(the two
(ryuichi tamura and gozo yoshimasu)
are poets, as would be known to those in this space)
but this very poem that is being written
which is becoming unexpectedly long
entitled "Reply I"
(needless to say, to think a poem by ryuichi tamura is in the background
is perhaps correct
as for gozo yoshimasu it isn't intentional)
)
"are dogs solving a differential equation?
rather, can we say they are?"
the nurse at the kindergarten
the nurse who called the dogs clever
is this what she meant?
the professor replies, "the dogs are solving a differential equation"
the reason i can't catch a ball like the 21st century
dogs on the continent (sic)
i finally find, is that
i am not solving the differential equation.
the difference between the professor and i is that he graduated from a
university
"that is a matter of semantics, though"
ah, it's logic different from Godel's
syntactics it is model theory
how can we define beauty i stopped
thinking
how can we define poetry other than it's a sequence of characters
what trajectory did the drop draw to reach me
a parabola?
the wind outside of the window speaks of spring
closing the book of classical dynamics
i'll wash the dirt away
by the way
i haven't begun to write a reply
a reply will be after a shower
(translated from Reiju Mihara's "hentou I", 4/5/94)
ある種のひじょうに鑑賞の困難な映像に関する詩
三原靈珠
市村さんから電話 祖父は死んだ
ビデオで見ていたと
光景を置き忘れてきた
墓地の樹に くくられ
夜
へびの現れる樹に
置きざりにされた光景を
おしいれの内側であやまり
わめき いもうとは
一時的事象を認識している
閉ざされていた
光景を
死んだ祖父が生きた
ころのビデオは
感動的
か
村だったから
墓地の内側に私の
家があった
ビデオはなく 死んだ
祖父の写真もなかった
生きた祖父の実像が
距離をへだて 街に
あった
市村さんは死者を見ている
私は自己を光景に投影している
発声する生きた姿を箱の
内側にながめている
闇が中で輝き
私が閉ざされたものとして声を出している
12時
父は現れた
へびよりも少し早く過ぎていく時代に
かろうじて間にあうように
母は襖を開く
それらは一時性のものだった
季節が数理的にめぐり
私は法則のように 生きた
私を そこに見ている
感動は特にない
私はいないから
(4/2/94, A poem on a kind of image that is extremely difficult to
appreciate)
三原靈珠
きょうは火曜日だから窓のなかには東洋の
少女がいてコーラを飲む
ついでに本をめくっている
三週間前のきょうは火曜日だった
きょうは火曜日だ
だからこんどの火曜日は三週間後です
七年前のはなしだが
ぼくの恋人は美しかった
とくに火曜と木曜は 美しかった
祖母はメリケン粉を溶いている
こいびとは髪を梳いている 東洋の
少女は微分方程式を解いている
裁判所のような教室でぼくは日本語の
「ひと」の発音を説いている
教会の鐘が鳴って きょうはおしまい
バッハのオルガンならカール・リヒターも好き
教会でペダルの部分を練習してたひとだよ
ひとの「ひ」はリヒターの「ヒ」さ
Valedictorian だったんです
微積分むずかしいです でも少し漢字
わかります フランス語ならできます
リクターって発音するから通じなかった
火曜日にベトナムの彼女が美しい
母音は入らない「ひ」という子音です
火曜日にぼくのこいびと美しかった
きょうは火曜日だ
窓のなかコーラの少女が美しい
だからベトナムの
彼女はぼくのこいびとです
駄作
三原靈珠
わたしたちリアス式海岸とか促成栽培とか
崩れかけた建物で
そういえば三人称単数現在も過去ね
続いているのかしら
連続関数の定義
わかっていないひとに教わって
とにかくここにすわってますけれど
昭和はもう終ったそうです
ということをいまさら
もちだすつもりはないのですが
いまはきっと
コンクリートの暖房の
きいた部屋に
というのはもうだいぶ前だったから
きみたちは
いる
「国際連合だなんてこんな教科書だれが書いたんですか」
わたしが昭和の高校で質問をしている
やっぱりソビエトはつぶれてしまった
ことをしらない昭和の先生の
答えは忘れてしまいました
最近ヘアが見えてきたと聞いた
彼女たちの近傍が存在して
どんな時間の近傍をとってもそこに
移しきれないと
感じるひともいないでしょう
関数はロガリズムのようにゆっくりと曲線を描いてる
不連続はないのです
もう革命なんて起らない
社会科学の勉強も数学のように
ロジカルにいこうよ
それともブール代数のお遊びは
社会という空間には向かないの?
写真がある
お米がある
自由経済は
まだ来ない
(3/27/94)
流れ
三原靈珠
テーマのない人生を生きてきた
テーマのないことがテーマになりはじめたので
テーマのない人生をきのうやめた
ある日私は渋谷駅の片隅で
口笛のおじさんを見た
雲に聳ゆる高千穂の
私は作らない私は創造しない
私は
創作しない
きょうは仕方ないが
きのうもそうだが
明日のこと考えよう
テーマのない人生の後の人生はテーマがいるのだろうか
と考えた
でもテーマがないので
きのうやめたテーマのない人生を再び
始めようかと
思った
たとえば小学校の下のトンネルを通る私がいた
防火水槽のぼうふらを見る私がいた
放課後に放火する私がいた
たとえば商店街の下のトンネルで踊る私がいた
官庁街の官僚を眺める私がいた
駐在所で昼食をする私がいた
これではまったく
意味している だめだ
作られている
私の小さなころ庭のすみに小川が流れていてぼくはトイ
レのようなかたちをした便所のかたちをした母のサンダ
ルをもって便所のかたちの母のサンダルをもって庭のか
たすみに流れる小川にもっていって流れる小川に浮かば
せた小川の流れに浮かばせたぼくは母のいない母の家へ
もどってサンダルを取りにもどってそのサンダルをもっ
て流れの方へ向かってもういちど便所の母のサンダルを
流れに浮かばせてみようと思ったサンダルが流れにのっ
てゆれているのは小舟のようででもぼくは舟を知らなか
ったでもぼくはこの記憶をもたない私は記憶を持たない
私は覚えているその感覚を記憶にないが私は覚えている
舟のテーマがあったぼくがテーマのある行動を取ったこ
とを
サンダルはいまどこにあるのか
私はその舟の上にいるはずだ
テーマを持った私がその上にいるはずだ
けれどそのときそんな歌だとは知らなかった
眼鏡のおじさん
私たちは存在さえ知らせられなかった
国家はすべて悪だ
私たちは個人であり
個人を超えた集団は幻想に過ぎない
集団は演技をしていた集団は音楽を演奏していた
よく雨が降った 雨は男性と
女性のうえに等しく 降った
おじさんはどうしてあの国家に敵意をもつのか
あらゆる国家は悪であるから
私たちは濡れた地面に横たわらなければならなかった
あらゆる国家が悪であるためにあの 国家はもう
悪ではない
男性は誰も横たわらなかった
それは高校生でも知っていることだ
あなたたちは手を振っていた
集団を形成する個人だった
テレビで母が見たと言った
自発的な集団のみが正当性を持つ
高千穂は私の学校の校歌にある
おかげで私たちの体育館
「私たちの」ね
は新しく建てなおされた
駐在所のおじさん私の表現を道公法で検閲した
ちがうちがうちがう私が
トンネルを私有していなかったのが理由だ
でも私は生徒たちのためにむかし貢献したのです
私は新しい体育館を建てたのですよ
おじさん
それほど未来を見ていたのではない
未来はいつも後からやってきた
批評家たちに指摘されて テーマということにした
私は舟を失ったものだから私にテーマはない
私は舟に乗って流れに従うものだったろうからいずれにせよ
私にテーマはない
はみでることもなく怒ることもなく
陽気に口笛を吹いて歩く
おばさんなのだから
(3/19/94)
詩 (3/15/94)
三原靈珠
もうすぐバッハの誕生日だからきょうはトマトジュースでも飲もうかと考えている
鏡に写っているのは確かに自分であると思うのだが写った自分が自分であることを否定するとき
写ったのはやっぱり自分だった
と思った
僕は証明できないよなんて自分でいっているのを写したら単に
証明できない自分
が写ってるに過ぎない
はずだ
何でも落ちてくるわけではないのだけど
きょうは
やたらと墜ちてくる 小鳥じゃなくて
気球が墜ちてくる 時計が墜ちてくる
それを対角線に並べて私は
何かを証明しようとしている ずらすのが
コツさ
とあなたは言っている
見上げてもなにも 漂流などしていない
われわれの共有するものはもうないのだから
けさわたしは遠距離電話をかけました
2000光年の彼方じゃなくて
となりの部屋にかけました
私がでんわに出てわたしはいない
とこたえるので わたしは
遠距離電話を切りました
叫んでいると私はそこにいたかもしれない
わたしは閉ざされていたわけではないので
そこにはいなかった
はずだ
「もしもし, J.S. Bach の番号は何番ですか?」
経済分析
三原靈珠
私は殺意を持つ
私は殺意を持つが殺さない
個人としての私は殺意を持てる
個人としての私は殺意を持てても
殺さない
私は殺意を持つか
私は殺意を持たないだろう
経済学者としての私は
殺意を
持たないだろう
少女が子熊を抱きしめる
少女は子熊を虐殺しない
子熊に命はない
命のない子熊を 少女は
捨てない
経済理論では均衡です
経済理論では 消費も
生産も
合理的行動です
経済理論では均衡なのです
経済理論では 家族の関係も
犯罪も 合理的
個人の行動なのです
私は殺意を持たない
経済学者としての私は
殺意を持てない
経済学者としての私は殺意をもたず
だまって殺し
通りすぎていく
断片 (3/13/94)
靈珠
エレベーターがあるのは病院だから 水が流れる
音がしている
きのう私は夢を見ました
エレベーターのなかに水をいっぱいに
溜めて泳いでいる
自動車はジェット機だった
きみたちが空を羨ましく見上げていた
そこに墜落した
ヘルメットのように転がる私の
頭骸骨
ドアを開けると 二人は
お別れですか
天井がないので
私たち歌いましようか
右の方を押せば時間が開くのだろうか
閉じこめられたプールで
開きません 時間は
開かないエレベーターのドアですから
うそです左を押せばそれでいいのです
私はきのうアメリカで
お寿司を食べました
ジャムを塗ったお寿司を マクドナルドで
食べました
食べているととても刺激がない私の生活のようで
詩はおわりましたか?
温泉ではないのです
ここは病院だから
川が流れているだけです
もう私の はじける夢も見ないでしょう
転がってる水
漂う頭骸骨
空に突きささる
ふたりの温泉
これは試験
靈珠
ぼくの News reader が動かないのは
きょうが冬の終わりの日だから
と言わない
時間のように動いても
あしたはもう 戻ってる
といい
と
思って
email program に切り換えようかと
夜中をなにして過ごしてた?
不可能性定理も自分に戻るのです
-fj.rec.fine-arts (before 4/16/94):
これは試験
断片 (3/13/94)
詩 3/15/94
経済分析
流れ
火曜日の論理学
駄作 3/27/94
ある種のひじょうに鑑賞の困難な映像に関する詩
返答 I
-rec.art.poems
Reply I
-4/16/94: fj.rec.fine-arts:
酒場で
ア・スナップショット
誕生
-4/23/94 at fj.rec.fine-arts:
土曜日の Friday afternoon
-5/2/94 at fj.rec.fine-arts:
ケインズ
-5/3/94
女屋
傾向的な夜
-5/5/94
(「傾向的な夜」に「返答 II」という別題与える)
-5/12/94 at fj.rec.fine-arts, fj.sci.math, fj.comp.theory:
Variations on the themes of Turing and Blum
-5/19/94
にゃぁお
序文
-5/29/94
解決
-6/5/94
社会・選択・公理
-7/3/94
綿菓子
墓碑銘
-7/10/94
熱帯夜
(オレンジ色の風が)
-7/17/94
もどっていくの
-8/16/94: fj.rec.fine-arts and fj.jokes
エロチカのための習作
-8/23/94: fj.rec.fine-arts and fj.rec.misc
カ、ケ、ラ、
-9/4/94: fj.rec.fine-arts and fj.rec.misc
抜いた手を焼く作品
無題 (9/4/94)
-9/17/94:fj.rec.fine-arts, fj.rec.misc, fj.sci.math
愛と美のパラドックス (meta-poem)
-9/17/94:fj.rec.fine-arts and fj.rec.misc
正義の見方
-9/27/94:fj.rec.fine-arts and fj.rec.misc
猫の首
それヲ、それデ
-10/9/94:fj.rec.fine-arts and fj.rec.misc
追憶
はだかのスカートたち
-10/17/94:fj.rec.fine-arts and fj.rec.misc
再構築された音楽
-10/31/94:fj.rec.fine-arts and fj.rec.misc
うたた寝
-12/10/94:fj.rec.fine-arts and fj.rec.misc
総括
(流れない水洗トイレは)
ある固定された点からの風景
(Thanksgiving の朝)
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